れは瘋癲病院の
冷き城に立て籠る。


  〔無題〕

庭つ鳥くだかけも能《よ》くすなる
みにくき事す。
ただそれのみ。
あはれ言ひ解くすべも無しや。
麗しき、麗しき歌はあれども。


  〔無題〕

われは歩める。うなだれて
そそ走り、また、たもとほり。
さざら波うち寄する白き渚を。
ああ今は男に作るわが媚も懶《ものう》きよ。
あはれ其の男の笑みも醜かり。
唯白き、白き渚のつづくまで
われは歩まめ。


  〔無題〕

家もたぬ身は羨し、
新しき家、空色の
四階の家のうらやまし。
都大路は馬、くるま、
人のゆききに塵あがり
笑ひ罵りわめくこゑ
恐しきまで覚ゆるを、
四階の家はおほどかに
街の上より見下ろしぬ。
家もたぬ身もなぐさむは
新しき家、そらいろの
四階の家を仰ぐ時。


  〔無題〕

ひさかたの空色の家、
さき草の三葉四葉に殿作り
日かげにほへる此家は、
あはれ此家は誰が為にある。
新しき大御代の為、国人の為。
[#改ページ]

 明治四十三年


  〔無題〕

しちめんだうな主《しゆ》の宿を
忘れて二人囃しごと、
ひやろ、ひやろ、と囃しごと。
お気に入らずはお主様
お叱りなされと囃しごと。


  ないしよごと

わたしキュラソオの酒を飲んだ事があつてよ、
四年ほど前の事なのよ。
こんな事云ツたツて
なんにも不思議では無いでせう。
けれどね、
今まで飲んだ事の無い様な顔をして居た事ね。

紫苑の花がひよろひよろと咲いてゐてね。
隣で蓄音器がしよつちゆう泣いてゐた
あの松井さんの柏木のお宅《うち》ね、
あすこのお座敷の隅にあツた本棚、
そら、扇のやうな形のね、
あの下から三つ目に有ツたわ、
キュラソオの罎が
罌粟《けし》の花を生けた白い水注《みづさし》と並んでね。

わたしはね、
日本の女が飲むもんじや無いと思ツてたの、
きつい、きついお酒だと思ツてね。
或日わたしは又|良人《うち》に叱られたの。
それで悲しくツてね、
ぶるぶると慄へながら行ツたの。あのお宅《うち》へね。
すると、婆あやさんもゐました。
わたしは婆あやさんに「又叱られてよ」と云ひました。

松井さんがね、
「奥さん、キュラソオでもお上んなさいツ」と仰《おつ》しやるの。
中が水色でね、
外が牡丹色でね、
金のふくりんのね、
やツぱし日本の酒盃《さかづき》なのよ。

たツた一つ丈わたしは飲みました。
ちツとも辛く無いの。
辛いとばかし思ツてたものがね、
甘かツたから
今日まで誰にも話が出来なかつたの。


  お俊傳兵衞

俊子《としこ》ツてえのはね、
お嫁に来てからの名なの、
真実《ほんたう》はお俊《しゆん》と云ふ名なの、
いい名でせう。

小説家が来てね、
女主人公《ひろいん》の名をつけてくれつてね、
私に云つたの。
あの傑作の「煙」ですよ。

その時私はね、
唯かう云つたの、
私の真実《ほんたう》の名はおしゆんです。
いい名でせうツて。

「煙」の女主人公《ひろいん》はね、
用吉の相手はね、
おしゆんぢやなかツた、
ねえ、おしゆんぢやないのよ。

だツて好《い》いのよ、
「煙」におしゆんが出ないからツて、
用吉の相手にならないだツて、
好いのですとも。

鳥部山を知ツていらしツて。
男肌には白無垢や、
上に紫藤の紋ツてね。
傳兵衞はいいわねえ、
用吉はいけないわねえ。
[#改ページ]

 明治四十四年


  〔無題〕

来て寝やしやんせ、三本木。
前の河原に脊の高い、
青い蓬のあひだから、
ちよ、ちよ、ろ、ちよ、ちよ、ろと水が鳴る。

来て寝やしやんせ、三本木。
知恩院の鐘がどんよりと
曇る月夜に鳴る晩は
前の河にも花が散る。

来て寝やしやんせ、三本木。
祇園の夢を見残して
ひとり千鳥を聞く夜さは
しんぞ恋路が悲しかろ。

来て寝やしやんせ、三本木。
あの鳴る鐘は黒谷の
松に涼しい明《あけ》の鐘。
お目が覚めたぢやないかいな。


  〔無題〕

朝顔の花の朝咲いて
まだ午前《ひるまへ》にしぼむとも、
わたしの知つたことで無い。
あなたの恋が尽きたとて、
わたしが何んで泣きませう。
わたしの泣くのはいつも一人で。


  〔無題〕

唯だ「人」と、若しくは「我」とのみ名乗るぞよき。
雑多の形容詞を附け足さんとするは誰ぞ。
大と云ひ、小と云ひ、善と云ひ、悪と云ひ……
そは事を好む子供の所為《わざ》なり。
何物をも附け足さぬはやがて一切を備へし故なるを。


  〔無題〕

行くほどに街は暮れて明るき月夜の海となり、
人は魚の如く跳り、ともし火は波の如く泡立つ。
地に落つる人影にわが影の入りまじる如く、
われは他の遊ぶを遊ぶ。
われは知る。つひに一人なり。


  風邪

十月八日の夜の十二時すぎ、
三人の男女《なんによ》の客を帰したあと、

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