親の家
目にこそ浮べ、ふるさとの
堺の街の角の家、
帳塲づくゑと、水いろの
電気のほや[#「ほや」に傍点]のかがやきと、
店のあちこち積み箱の
かげに居睡る二三人。
この時黒き暖簾《のれん》より
衣ずれもせぬ忍び足
かいま見すなる中の間《ま》の
なでしこ色の帯のぬし、
あな、うら若きわが影は
そとのみ消えて奥寄《あうよ》りぬ。
ほとつく息はいと苦し、
はたいと※[#「執/れっか」、9巻−326−下−4]し、さはいへど
ふた親いますわが家を
捨てむとすなる前の宵
しづかに更くる刻刻の
時計の音ぞ凍りたる。
一番頭と父母と
茶ばなしするを安しと見、
こなたの隅にわが影は、
親を捨つると恋すると
繁き思《おもひ》をする我を
あはれと歎き涙しぬ。
よよとし泣けば鈴《べる》鳴りぬ、
電話の室のくらがりに
つとわが影は馳せ入りて
茶の間を見つつ受話器とる。
すてむとすなるふるさとの
和泉なまりの聞きをさめ。
人の声とは聞きしかど、
ただわがための忘れぬ日
楽しき日のみ作るとて、
なにの用とも誰ぞとも
知らず終りき。明日の日は
長久《とは》に帰らぬ親の家。
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明治四十一年
赤とんぼ
酒屋の庫《くら》のうら通り、
二間《にけん》にたらぬ細通り、
向ひの側の屋根火の見
釣半鐘やものほしの
曲《ゆが》みてうつる影の上、
二間ばかりを初秋の
日はしら壁につぶと照る。
ゆききとだえし細通り、
少女《をとめ》二人は学校の
おやつ下りを帰りきぬ。
十四と十二髪さげし
その幼きはわれなりき。
一人の髪は今しらず。
評判者のいぢわるの
しげをの君は隣の子、
五町ばかりのゆきかへり
つれだつことを悲みぬ。
この日は何か先生に
しげをの君はしかられて
腹立泣《はらだちなき》に泣きしあと。
しげをの君はもの云はず、
何を云ひてもいらへせず、
いとおそろしき化《ばけ》ものと
肩ならべゆくここちして
われは死ぬべく思ほえぬ。
酒屋の庫のうら通り。
庫の下なる焼板に
あまたとまれる赤とんぼ
しげをの君の肩にきぬ。
一つと思ふにまた一つ
帯にとまりぬ、また一つ
裾にもとまる、赤とんぼ。
つと足とめて、あなをかし
とんぼの衣《きぬ》とわれ云ひぬ。
とんぼの衣とその人も
はじめてものを云ふものか。
酒屋の庫のうら通り、
初秋の日は黄に照りき。
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