の生を営む婦人のあるという事が必ずしも不合理でない一証には、古《いにしえ》の女帝にも御独身の方が多く、女流の文学者にも寡婦《かふ》となって後に名を揚げ、また未婚で終った人たちも少くない。独身主義は決して今日の新しい婦人の発明ではなく、現に我我と異《ちが》った前代の教育を受けられた今の老年女流教育家にも独身もしくは寡婦で押通した方が多いのです。論者はそういう例は特別である、そういう独身婦人は変り物だといわれるでしょうが、其処《そこ》が前に申した如く、現代の根本精神は各人の個性に適応して自由なる発達を遂げる事を尊重し、「女はこうすべきものだ」と一概に決めてしまわない所に妙味があるのですから、むしろ特例が多く、良い意味の変り物が多く出るのが結構なのです。一元論でなく多元論なんです。もし嘉悦孝子《かえつたかこ》先生や幸田延子《こうだのぶこ》女史が結婚せられ、下田歌子《しもだうたこ》先生が再婚せられたのであったら、あれだけの社会的事業は出来なかったでしょう。小学校や女学校に多数の独身を守られる婦人があってこそ教育界は実績が挙って参るのです。これらの御婦人たちはいずれも結婚しない事の苦い不幸を味《あじわ》いながら、その不幸を他の幸福に換える立派な工夫を実行していられるのです。教育界ばかりでなく、あらゆる階級の婦人に、現に意に満ちた結婚を求めて得られない所から、他の職能で独立自営を計り、併《あわ》せて父母兄弟を養って行こうとしている人たちの多いのは、私の同情に堪えない所であると共に、時代に処する覚悟と勇気との健気《けなげ》な事を甚だ心強く存じます。皆が皆結婚に由《よっ》て幸福の得られない現代に、「女は結婚すべきものだ」というような役に立たない旧式な概論に動《うごか》される事なく、結婚もしよう、しかしそれが不可能なら、他にいくらも女子の天分を発揮すべき文明の職能がある。結婚のみが自分の全部でないという見識から、境遇と自分の個性とに順じて思い思いの進路を開き、いろいろに立派な変り物の婦人が多く出て来られる事を望みます。男子の方から申してもそういう意志の強い、役に立つ、独立自営の婦人が出て来れば、足手まといが少くなって都合が宜しくはありませんか。
[#下げて、地より1字あきで](『婦人の鑑』一九一一年四月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「一隅より」金尾文淵堂
1911(明治44)年7月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年1月10日公開
青空文庫ファイル:
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