出して来ては困るよ。』
こんな戯談を云ひながらSさんは表へ出ました。私はそれまで其処に立つて居る筈の女を見るのが術なくて身体を少し引き込めて居たのでしたが、初めて障子から顔を出しました。
『お上りなさいな。』
私は一方へ寄せてある障子の前の処に居る人を恐々見たのでした。
『へえ、結構な姿《なり》なんですからね。』
女の声は大きい、二軒先の勝手口で云つて居ても聞える程なのです。
『まあお上んなさい。』
『何もありませんから、結構な姿をして来ました。』
女は色の黒い平面《ひらおもて》で、斜に釣り上つた目であること、肩の幅の広いことなどが薄暗い中でも私に感ぜられました。
『御免下さいまし。』
手を擦り擦りかう云つて上つて来る女を見まして、何とも云へないやうな心細さを覚えました。
『二階へいらつしやい。』
私は先に立つて梯子段を上つて行つて、応接室を見ると、何時の間にかもう良人は座に帰つて居ました。あれで三味線を弾いたでせうか、心いきを歌つたでせうか、私はこんな苦笑を包みながら先刻Sさんの居た椅子へ座りました。
『御免下さいまし。夜分上りましては済みませんのですがね、早く出まして三里も五里も歩きましてね。』
女は外の板の廊下へ膝を突いてかう云ふのでした。
『それは気の毒だ、さあ此方へ来給へ。』
と良人は云ひました。女は入つて来ましたが、私は初対面の挨拶をするのもきまりが悪くて、
『御遠慮をなさらないで、此方へ来てお掛けなさい。』
などと云つて女を椅子に座らせてしまひました。
『三里も五里も道に迷ひましてね。』
『電車にお乗りにならなかつたの。』
『いいえ、乗つて参りまして三番町で降りたのですよ。』
『ぢやあ直ぐ近くだ。』
と良人が云ひました。
『それから六度も同じ処を通りましたんですよ。六度もね。終ひにあの四つ辻の角の酒屋で聞きましてやつと解りましたんですよ。』
女のこめかみには一寸四方程の頭痛膏が張つてありました。髪は女工のして居るやうな総髪《そうはつ》の梳髪《すきがみ》なのでした。紡績絣の袷を素肌に着て、半幅の繻子の帯をちよこなんと結んで、藍地の麻の葉のメリンスの前掛をして居ました。女は穢れた瓦斯紅絹の八ツ口から見える自身の腕を眺めてじつとして居ました。
『Y君はどうしてるね。』
『Yさんね、毎日毎日歩くもんですからね、こんな底まめを三つも足の裏に拵へなすつてね、今日は動けないんですよ。』
私は女に指を二寸程出して見せられるのを、先刻聞いた三里五里と同じやうに思つて眺めて居ました。
『ひどいものですね。』
とまた女は云ひました。
『それは気の毒だ。』
『旅へ出て苦労ばかりしますよ。真実に。』
『あなたの国は何処だい。』
『お父様《とつつあん》は宇治なんです。』
『京のかね。』
『ええ、お母さんと云ふお方は九州の人で、それが私のやうに彼方此方とまごついて、東京へ来ましてお父様と一緒になつたのでせう。それから九州へ帰りまして商売[#「商売」は底本では「商買」]をしましたのですが、私の八つの時にお父様《とつつあん》は死にましたのです。そしてお母様は三人の子のある男を家へ入れたんですよ。その男に三軒も出してあつた店は皆つぶされてしまひまして、私は終ひに女郎にまで売られたのですよ。』
『さうかね。』
『Yさんがくはしいことをお話しましたさうですね。』
『少しは聞きましたがね、あの六百枚から書いておいでになつた小説を見ればよく解るのだらうけれど、そんな暇がないものだから。』
『さうですか、まあ厭だ。この間もね、今日はすつかり此方《こちら》へ行つてお話して来た。すつかりお話して来たなんか云つて居るのですよ。』
先刻女中に渡して置いた末の子が泣いて居るのを私は知つて居ながら、立つて行つてはこの人に悪いやうな気がしてじつとして居るのでした。直ぐ梯子段の下まで来て居るらしいので、私は座を離れて行つて、
『伴れていらつしやい。』
と云ひました。子供は涙の溜つた目で嬉し相に両親を見廻しながら抱かれて入つて来ました。
『女のお子さんなんですか。』
子供には赤い無地のメリンスを着せてあつたのです。
『男ですよ。』
『まあ可愛らしい。』
女は手を出して私の膝の上に居る子供をあやすやうにして居ました。よく笑ふ子ですから、きいきいと云つて居ました。
『Y君はよく東京の事情を知らないものだから、原稿さへ書けば直ぐ金になると思つて居たので、気の毒だ。』
『それですよ。書いてしまつたら屹度お金になるんだと云ふものですから、どうぞ書いて頂戴、私はその間どうでもしますつて云ひましてね。働いて居たんですよ。その間はYさんもさうですが私も毎晩二三時頃まで寝ませんでしたよ。』
『金は出来ないでもY君の仕事は真面目なことで、そしてきつと立派なものが
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング