忍びない氣がします。漸く南岸へ出ると、其處は危い斷崖になつて緑玉色の水が底まで透いて見えます。少し離れて帆前船が一艘帆を張つたまま風を待つて居ました。
 氣侯はさながら東京の四月です。まだ舊臘から一度も霜が降らないと云ふ事です。霜は一月の末から二月へかけて五六度降るだけだと云ひます。
 東岸へ廻つて、それから再び北岸の村へ降り、一軒しかないと云ふ禪宗のお寺を覗き、また一番古い建物だと云ふ或家の手斧普請を觀せて貰つて大屋へ歸りました。
 伊豆山から用意して來た辨當で晝食を濟ませたのは午後一時半でした。
 大屋を辭して再び小學校へ立寄ると、校長が前の家から來て、區長さんと一所に島の話をいろいろとして下さいました。明治以來中等教育を受けた島の人は校長一人であると校長自身の話でした。
 島の戸數は現在四十一戸です。以前は四十三戸であつた相です。それ以上殖やすことの出來ない不文律が昔から行はれて居て、二男以下の子女はすべて他國へ行つて職業を求めます。島の土地が其等の人口を養ひ得ないからです。土地は昔から四十餘戸へ殆ど平分されて居て、その耕作は共同的であり、相互扶助の理想が自然の必要から實現されて居ます。食料と薪炭とは米を除いて自給自足の状態を繼續して居ます。米は夏期の雨が乏しいために陸稻さへも出來ません。夏は乾燥して露さへも全く降らないと云ひます。その割に夏の氣候は非常に涼しい相です。島に醫師は一人もありませんが、死亡者は統計に由ると(之は區長さんの言葉です、)五六年に四五人しか無いと云ふことです。現在の人口は二百四十三名だと聞きました。生活は半農半漁です。女子は自家用の縞木綿を織つて居ます。私の感心した事は、村の道路から庭内の隅隅までが歐洲の田舍のやうに丸石を敷き詰めてある事と、島中の植物の手入が行屆いて、何處の土地も掃いたやうに清潔な事です。併し此島では一草一木も日常生活の功利的必要から愛護されるのである事と思ふと、狹い土地の植物が家畜と同じ待遇を受けてゐる事を氣の毒に感じます。區長さんは大きな椿を見る度に指點して「之は何斗の實を結びます」と云つて、その大切な木である事を教へてくれました。區長さんは少年の日から島中の椿の實の收穫量を樹毎に就いて暗記してゐるのです。
 大屋の主婦は話の中で「水仙ばかり根絶やしが出來んで困ります」と云ひました。美くしい一重椿も島人からは花に因つて愛護されるので無く、香りの特に烈しい、背の高い水仙も、それが貨幣に換へられないと云ふ理由と、畑地の妨げになると云ふ理由とで、成ることなら根絶するやうにと望まれてゐるのです。
 私達は島に來て、傳説的な想像は少しく幻滅しましたが、併し温暖な氣候と日光との中に、滿山の椿と水仙とを目にした實感は猶武陵桃源の趣がありました。午後二時半に島を辭しようとすると、區長さんが島人を代表して澤山の蠑螺を返禮に贈つて下さいました。歸りの船は午後五時前に伊豆山の相模屋の裏手の磯へ着きました。
 歸つてから、良人は初島の歌を澤山に作りました。



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1921(大正10)年10月記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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