な幻覚に襲はれて、此正月に大逆罪で死刑になつた、自分の逢つた事もない、大石誠之助さんの柩などが枕許に並ぶ。目を開けると直ぐ消えて仕舞ふ。疲れ切つて居る体は眠くて堪らないけれど、強ひて目を瞑ると、死んだ赤ん坊らしいものが繊《ほそ》い指で頻に目蓋《まぶた》を剥かうとする。止むを得ず我慢をして目を開けて居ることが又一昼夜ほど続いた。斯んな幻覚を見たのは初めてである。わたしの今度の疲労は一通で無かつた。
日が経つに従つて産後の危険期も過ぎ、余病も癒り、体も心持も次第に平日に復して行くらしい。昨日から少しづつ室内を歩く事を許され、文字なども短いものならば書いてよい事になつた。
わたしの目に触れないで消えて仕舞つた死んだ赤ん坊の印象は、産の苦痛の無くなつた今日何もわたしに残らない、まるで人事の様である。空である、虚無である。唯其児の為にと思つて拵へた赤い枕や衣類が、副室の押入に余計な物になつて居るのを見ると、物足らない淡い哀しみが湧いて来る。やはり他人に別れたのでは無い、棄てられた母と云つた様な淋しい気持である。
看護婦さんは硝子の花瓶から萎れたヘリオトロオプを一本抜いて捨てに行つた。
わたしは早く騒しい中六番町の宅へ帰りたい。
婦人問題を論ずる男の方の中に、女の体質を初から弱いものだと見て居る人のあるのは可笑《をか》しい。さう云ふ人に問ひたいのは、男の体質はお産ほどの苦痛に堪へられるか。わたしは今度で六度産をして八人の児を挙げ、七人の新しい人間を世界に殖した。男は是丈の苦痛が屡※[#二の字点、1−2−22]せられるか。少くともわたしが一週間以上一睡もしなかつた程度の辛抱が一般の男に出来るでせうか。
婦人の体質がふくよかに美しく柔かであると云ふ事は出来る。其れを見て弱く脆いと概論するのは軽卒で無いでせうか。更に其概論を土台にして男子に従属すべき者だと断ずるのは、論ずる人の不名誉ではありませんか。
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男をば罵る。彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな。
[#ここで字下げ終わり]
わたしは野蛮の遺風である武士道は嫌ですけれど、命がけで新しい人間の増殖に尽す婦道は永久に光輝があつて、かの七八百年の間武門の暴力の根柢となつて皇室と国民とを苦めた野蛮道などとは反対に、真に人類の幸福は此婦道から生じると思ふのです。是は石婦《うまずめ》の空言では無い、わたしの胎を裂いて八人の児を浄めた血で書いて置く。
日本の女に欧米の例を引いて結婚を避ける風を戒める人のあるのは大早計である。日本の女は皆幸福なる結婚を望んで居る。剛健なる子女を生まうと準備して居る。
底本:「日本の名随筆42 母」作品社
1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
1988(昭和63)年1月20日第5刷発行
底本の親本:「定本・与謝野晶子全集 第一四巻」講談社
1980(昭和55)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:もりみつじゅんじ
校正:菅野朋子
2000年6月1日公開
2005年6月25日修正
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