が全く一無に帰して仕舞ふ気がしてならぬ。人は何処までも利己的である。禅家の大徳の臨終が立派であると云ふのは何よりも繋累《けいるゐ》の無いと云ふ事が根柢になつては居ないでせうか。
 わたしは斯んな事で産前十日程から不安に襲はれ、体の苦痛に苛《さいな》まれて、神経が例に無くひどく昂《たかぶ》つて居た。

 お産は二三度目が比較的楽で、度び重る程初産の時の様な苦痛をすると云ふ。産む人の体質にも由る事でせうが、わたしの経験した所ではよく其れが当て適《はま》る。此前の産も重かつたが、今度のは更に重かつた。産む時ばかりで無く、産前産後に亘つて苦痛が多かつた。幸ひ人工的の施術《しじゆつ》も受けず、二月廿二日の午前三時再び自然の産気が附いて、榊博士の御立会下さつた中で生みました。わたしは病院の御厄介になると云ふ事を従来《これまで》経験しませなんだが、お産を病院ですると云ふ事は経済さへ許せば万事に都合がよい。院長さんに親しく脈を取つて頂き、産婆さんや看護婦さんの手が揃つて居るので、産婦には何よりも心強い。
 けれども産む時の苦痛は減じない。却《かへつ》て従来よりも劇しかつた。

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