。」
「それをせわだ文学と読むのですよ。」
「さうでしたか、私はわせだ文学だと思つてました。さう読むのでしたかねえ。」
「さうらしいですよ。」
 私はそれから裁縫の教場へ入りましたが、早稲田をせわだと云つた自分の説に不安の起つて来るのを感じました。私の頬はもう熱くなつて居ました。誤つたと思ふよりも先に恥を感じたのです。早く実の出来る稲は早稲《わせ》ではないか、それに田が附いて居るからわせだなのだ、私は最初にふと誤つた読癖《よみぐせ》を附けてしまつて誤りを知らずに居たので。楠さんの云つたことが正しいのだ、楠さんにはそれが解つて居るのに私を反省させるために譲つてお置きになつた、真実《ほんたう》に楠さんに済まないと思ひました私は、裁縫の教場では私等よりずつと高い級に居る楠さんの所へ走つて行きました。
「楠さん、先刻《さつき》の雑誌の名はやつぱし早稲田《わせだ》文学でしたわ。」
 大決心をして詫びようと思ひましたことも口ではこれだけより云へませんでした。私はそれから少し経つてからある日曜に寺町の大安寺《だいあんじ》へお祖母《ばあ》さんのお墓参りをしました時に楠さんを訪ねて行きました。その慈光寺の門には金の大きい菊水《きくすい》の紋が打たれて居て、其《その》下に売薬の古い看板がかゝつて居ました。
「お上りなさいな。本なんか出して遊びませう。」
 暗くて広い庫裏《くり》の土間の上り口で楠さんは頻りに勧めてくれましたが、友人の家と云ふ所へ其《その》時初めて行つた私は思ひ切つて楠さんの居間へ通ることをようしませんでした。向うの室《へや》で機《はた》を織つておいでになつた楠さんの母様《かあさん》も出て来て私をいたはつて下さいました。
「では庭ででも遊びませう。」
と云ふ楠さんに伴はれて私は鐘樓の横やら本堂の前やらの草木の花の中を歩きました。今思へばそれ程のこともありませんが其《その》頃の私には慈光寺の庭程美しい趣の多い所はないやうに思はれました。
「私の姉《ねえ》さんは薔薇があれば香水を拵《こしら》へると云つてます。」
 こんなことを私が云ひますと、
「薔薇の花を切つて上げませうか。」
と楠さんは云ひました。私は驚異の目を見張て、
「お父様《とうさん》のお花を切つてもいいのですか、あなたが。」
と云ひました。
「いゝのですとも。ちつとも叱られませんよ。」
「まあ。」
 私は楠さんの得て居る自由を羨まずには居られませんでした。私のために鋏《はさみ》を取つて来て薔薇の花をしよきしよきと切つて落しました。鉢植のも花壇のも高い木に倚《よ》つて咲いたのも好《い》いのは皆切つてくれました。赤いのなどは香《か》が悪いと云つて白や薄黄や薄水色やばかりを切つてくれました。其《その》日私が姉の前で開きました包から百ばかりの薔薇の出ました時の心もちは今思ひ出しましても興奮される程嬉しいことでした。二人がお茶の稽古に行きます日、その初《はじめ》に師家へ納めます金のことで、
「束脩《そくしう》と云ふのでせう。」
と楠さんは云ひ、私はまた、
「脩束《しうそく》ぢやなかつたかしら。」
 こんな間違ひを云つた記憶もあります。河井酔茗《かはゐすいめい》さんなどの仲間へ私を紹介した人もそれから幾年か後《のち》の楠さんでした。


私の見た少女 おさやん

おさやん

 おさやんと私は従妹《いとこ》です。真実《ほんたう》の名前は龍野《たつの》さくと云ふのです。私とおさやんは同年《おないどし》でしたけれども、おさやんは三月に生れて私は十二月に生れたからまあ一歳《ひとつ》違ひのやうなものだと私の母であるおさやんの叔母が何時《いつ》も云ひますのを、私は小い時分から真似して其《その》通りのことを云つて居ました。それにおさやんは龍源《たつげん》の叔母の子として一番大きい子で、私は兄弟の中で末つ子に近い方でしたから、一方は大人びて私は子供々々しくて三月と十二月の違ひばかりでなくおさやんは私を妹あつかひにして居ました。おさやんの家は酒屋でした。なつかしい、気の好《い》い遊び相手だつたおさやんを思ひますとまづ目に山のやうに高い大きい酒樽《さかだる》の並んだ幻影《まばろし》が見えます。光線を多く取つてない私の郷里などの古い建築法で造られた家は、中の土間へ入ると冬でも夏でも冷々《ひや/\》とした風が裾から起つて来るのでした。中浜通りの小林寺町《せうりんじちやう》と云ふ所にそのおさやんの家はありました。私は大抵の場合自分の家の「べい」と私が極く小い時分から私だけの特殊な呼名を附けて居た老いた女中と一所《いつしよ》に龍源へ行きました。もう一人の叔母の家がその二三町先にありまして、私は其処《そこ》へ行つた帰りを龍源へ寄るのが例でした。黒くなつた大きい酒屋看板を遠くから見て私の小い胸は先づ轟《とゞろ》いたもの
前へ 次へ
全20ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング