はれたでせう。しかも私のなどは帰り途《みち》の細い道で、大かたはころ/\と落ちてしまひました。今度の路は金右衛門さんの家の正面でなしに、座敷の左手の庭へ附いて居るのでした。其処《そこ》には鳥兜《とりかぶと》の紫の花が沢山咲いて居ました。
私の生ひ立ち 九 堺の市街
堺の市街
私はこの話のおしまひに私の生れた堺《さかひ》と云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟《ちぬ》の海に面した和泉国《いづみのくに》の一小都市です。堺の街|端《はづ》れは即ち和泉の国端れになつて居る程に、和泉の最北端にあるのです。摂津《せつつ》の国とは昔は地続きでしたが、今は新大和川《しんやまとがは》と云ふ運河が隔てになつて居ます。大和橋《やまとばし》はそれにかかつた唯一の橋です。水に流されて仮橋《かりばし》になつて居たことが二度程ありました。仮橋は低くて水と擦《す》れ擦《す》れでしたから、子供心にはその方を渡るのが面白かつたのでした。河原の蘆《あし》や月見草は橋よりもずつと高く伸びて両側から小い私の髪にさはる程でした。私には年に一度その河原でお弁当を食べる日がありました。それは蚊帳《かや》の洗濯に伴《つ》れて行つて貰ふ日のことです。五張《いつはり》、六張《むはり》の蚊帳を積んだ車の上に私等の兄弟は載せられます。下男やら店の丁稚《でつち》やらがそれを引いて行きますが、さすがに大通りは通らずに、六軒筋《ろくけんすぢ》と云つて両側に酒屋の蔵ばかりの建ち並んだ細い道を行きます。それでも道で人に逢ふと、
「するがやはんの蚊帳洗濯や。」
かう云はれるのでした。一|行《かう》には母などは居ません。手伝ひ人の小母《をば》さん位が重《おも》な人で、女中や雇ひお婆さんなどばかりです。綺麗な水のしやぶしやぶと云ふ音と人々の笑ひさゞめく声と河原の白い砂と川口の向うに見える武庫《むこ》の連山が聯想されます。街の東の仕切になつて居るのは農人町川《のうにんまちがは》です。これは運河と言ふよりも溝の大きいやうなもので、黒い泥の所々にぶく/\と泡立つ水が溜つた臭い厭《いや》な所です。然《しか》しそれには関りもない広い快い田圃《たんぼ》はどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内《かはち》の生駒山《いこまやま》や金剛山《こんがうざん》の麓まで眺める目はものに遮られません。南は国境の葛城《かつらぎ》山脈になつて居ます。近い所には大仙陵《だいせんりよう》が青色の一かたまりになつて居ます。後《うしろ》を向いて街の方を見ますと、ずつと北の方に浅香山《あさかやま》の丘が見え、妙国寺《めうこくじ》の塔が見え、中央に開口《あぐち》神社の塔が見えます。私等が実を拾つて遊ぶ廻り二三|丈《ぢやう》もある開口神社の大木の樟《くす》が塔よりも高く見えます。塔は北にあるのも南のも三重屋根です。私はある時友達と一所《いつしよ》に、田圃へ螽斯《いなご》を取りに行つて狐に化された風《ふう》をしました。初めは戯談《じようだん》でしたのですが、皆がもうそれにしてしまふので仕方なしに続けてお芝居をして居ました。私は最初赤いしぶと花をいくつもいくつも取つてお煙草盆《たばこぼん》に結《ゆ》つた髪へ挿しました。
「皆さんも私と一所にあの御殿へ行きませうね。」
と云つて、御陵《ごりよう》の樋《ひ》の口《くち》に続いた森を指さしたりしました。私だけは父が迷信を極端に排斥したものですから、狐や狸のばかし話は嘘であると信じて居るのですが、友達は一人残らず住吉《すみよし》参りをした吉《きつ》つあんの話を真実《ほんたう》のことと思つて居たやうです。私もお菓子を持つて居るから狐が化すといけないと云つて、それを捨てる人、蜜柑は大丈夫だらうと云つて一旦捨てたのを拾ふ人、そんなことはをかしかつたのですが、榎茶屋《えのきちやや》の植木屋に親類のある人が水を汲んで来てくれたのを見まして、私は初めて悪いと思つて誤りました。天王様《てんわうさま》のお社《やしろ》は町から十町程離れてあるのです。堺の人の多くが春の花見をしに行く処です。山桜が社前に十二三本と、後《うしろ》の池を廻つて八重の桜が十本程もある位に過ぎないのですから、まあ大家《たいけ》の庭にも、ある程の春色とも云ふべきものなのですが、其《その》頃の和泉河内の野を一様の金色《こんじき》にして居る菜の花の香にひたらうとするのには好《い》い場所です。其処《そこ》を一町程北西へ隔つた所に方違《かたたがへ》神社があります。方《かた》ちがひさんと堺の人は皆云つてます。立春の日に鶴の羽を髪に挿した女達の参詣する所です。方違神社から真直《まつすぐ》に田圃の中を通つた道を町へ入つて来ますと、其処《そこ》は大小路《おほせうぢ》と云つて堺で一番広い町幅を持つた東西の道路になつて居
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