こ》だすか。」
「此処《ここ》です。」
 私は脇腹を手で押へました。
「盗賊《どろぼう》は私を箱へ入れて、支那《しな》へ伴《つ》れて行かうと思ひましてねえ。乗せられたのですよ船へ、船に酔ふと苦しいものですよ。目が赤くなつて、足がひよろひよろになつてしまふのです。」
 私は酒酔《さかゑひ》と船暈《ふなゑひ》を同じやうに思つて居たのです。
「そしたらひどい浪が起つて来てね、私の乗つた船が壊れてしまつたのです。私の入れられて居た箱も割れたので、丁度《ちやうど》よかつたけれど。私はそれでもう気を失つて居たのですがねえ、今度目を開いて見ると堺《さかひ》の浜だつたのです。」
「燈台が見えたのだすか。」
「ええ、夜でしたから青い青い灯が点《とも》つて居ましたよ。」
「それから鳳《ほう》さんの子になりやはつたのだすか。」
「ええ。」
「まあ可哀相な方《かた》。」
「継子なんて、ちつとも知りまへんだした。」
「気の毒だすなあ。」
 私の傍に居る人が四五人泣き出しました。さうすると誰も誰も誘ひ出されたやうに涙を零《こぼ》しました。嘘を云つた私までが熱い涙の流るのを覚えました。


私の生ひ立ち 六 火事

火事

 ある夏の晩に、私は兄弟や従兄《いとこ》等と一所《いつしよ》に、大屋根の上の火の見台で涼んで居ました。
「お月様とお星様が近くにある晩には火事がある。」
 十歳《とを》ばかりの私よりは余程大きい誰かの口から、こんなことが云はれました。そのうち一人降り二人降りして、火の見台には私と弟の二人だけが残されました。
「籌《ちう》さん、あのお星様はお月様に近いのね。そら、あるでせう一つ。」
「さうやなあ、火事があるやら知れまへんなあ、面白い。」
「私は恐い。火事だつたら。」
「弱虫やなあ。」
 弟はかう云つてずんずん下へ降りて行きました。私はその後《あと》で唯《たゞ》一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で、そして此処《ここ》まで焼けて来るかも知れないのであるからと心配をして居ました。
 その晩の夜中のことでした。私の蚊帳《かや》の外で、
「火事や。」
「火事、火事。」
と云ふ声が起りました。耳を澄まして見ますと、家の外をほい/\と云ふやうな駆声《かけごゑ》で走る人が数知れずあるのです。家の中にはまた彼方此方《あちこち》をばたば
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