やうもない美しいものでした。三つの燈籠はまたその夜涼台の上に吊されました。老婢が気を附けて、萎《しな》びぬやうにと井戸端の水桶の中に、私の燈籠は前夜もその前夜も入れられてあつたのですが、それにも関らず青白かつた彫跡《ほりあと》は錆色《さびいろ》を帯び、青い地は黒い色になつて居るのです。形も小くなり丸かつたものが細長いものに変つて居るのです。私は生れて初めて老《おい》と云ふことと死と云ふことをその夜の涼台で考へました。早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬《やるせ》ないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをして下《おろ》さうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。
次の年には父は誰のとも決めずに流《ながれ》を鮎の上る燈籠を西瓜で彫つてくれました。私はその時にはもう生命《いのち》の悲みなどは忘れて、早く自分も何かの絵を西瓜に彫つて、燈籠を作るやうになりたいとばかり思つてました。
私の生ひ立ち 四 夏祭
夏祭
お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓《はらひ》が幾月と幾日《いくか》すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡《ひろ》げます度に、私等|姉妹《きやうだい》に由《よ》つてさゝやかれました。大祓祭《おほはらひまつり》は摂津《せつつ》の住吉《すみよし》神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿《みこし》の渡御《とぎよ》が堺《さかひ》のお旅所《たびしよ》へある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉《いづみ》の鳳村《おほとりむら》にある大鳥《おほとり》神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭《よみやまつり》になるわけなのです。大阪であつても、私の郷里であつても、彼方《あちら》の地方の人は、万人共通に何事かの場合に着る着物の質の標準と云ふものが決まつて居ます。それで宵宮の日には、大抵の人は其《その》年新調した浴衣《ゆかた》の中の、最も善いものを着るのです。唯《たゞ》一枚よりその夏は拵《こしら》へなかつたものは、大人でも子供でも、その日まで着ずにしまつて置くので
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