りで行つて参りますの。』
 と山崎が云ふ。
『箱根ですね、塔の沢ですね。』
 男が点頭《うなづ》きながら云ふと、
『湯元よ。』
 と桃|割《われ》の女は云つた。
『さうですか、もう汽車が出るのですか。』
『出やあしないわ。乗り遅れちやつたのよ、まだ一時間もあつてよ。』
『もう三十分になりましたよ。』
 と黒子《ほくろ》の女が云つた。
『御一緒にいらつしたらどうですか。勝間さん、小《ち》つぽけな宿屋ですよ。』
 先刻《さつき》から何か考へて居るやうだつた山崎が云つた。
『僕かい。』
 男は目を見張つてかう云つた。
『それが好《い》いわねえ。平井さん。』
 桃|割《われ》の女ははしやいだ声でかう云ふ。
『さうですね。』
 黒子《ほくろ》の女は沈んだ調子で云つた。
『いらつしやいよ、勝間さん、行つたつて好《い》いでせう。』
 桃|割《われ》の女は青磁色の薄い絹の襟巻の端に出た糸を指でむしりながら云ふ。先刻《さつき》から心持《こヽろもち》程頬の赤味が殖《ふゑ》たやうである。
『先生のお目玉が恐《こわ》いんですよ。ねえ山崎君。』
 かう云つて男は敷島を一本|袂《たもと》から出して口に銜《くは》へた。そして手を両方の袂《たもと》へ入れて燐寸《マツチ》を捜して居る。
『辻さんがいらつしやるからもう一日位よう御座んせう。』
 と山崎が云つた。
『一寸法師が居るから好《い》い。』
かう云つて桃|割《われ》の女は千代田草履をはたはたと音させた。
『汽車に乗つて今帰つたばかしなんですから。』[#改行を挿入]
 と男の云ふのはほんの口先だけであるらしい。
『あなたが行《ゆ》かなけりやつまらないから私は帰るわ。一緒に帰りませう。山崎さんと平井さんとで行つて来ると好《い》い。』[#「』」は底本では「」」]
『まああんなことを云つていらつしやる。勝間さんお決めなさいましよ。』
 と山崎が云つた。
『ぢや行《ゆ》きませうか。僕は横浜に居ることにして置いて貰はないと都合が悪いよ。』
 男はかう云つて、山崎と平井の顔を等分に見た。平井はおとなしく点頭《うなづ》いた。
『先生に判《わか》りはしませんよ。ねえお嬢様。お父様《とうさま》に仰《おつ》しやらしないでせう。』
 山崎が云ふとお嬢様は蓮葉らしく点頭《うなづ》いた。
『切符はもう買つたのですか。』
『買つたのよ。』
『それぢや僕も買つて来ませう。』
男が其方へ行かうとすると、
『およしなさいよ、勝間さん。山崎さん先刻《さつき》ので買つて上げて頂載。』
 とお嬢様は口早《くちばや》に云つた。[#「。」は底本では脱落]山崎は目で点頭《うなづ》いて駆けて行つた。平井は其跡を追つて行かうとした拍子に、手に持《もつ》たお納戸《なんど》のとクリイム色のと二本の傘を下に落《おと》した。顔を赤《あから》めてそれを拾はうとする時に、後《うしろ》から来た人は屈《かゞ》んだ平井の身体《からだ》を押したのでひよろひよろとした。
『ひどいこと。』
 と云つて、平井は立つて髪に手をやつた。
『僕は一寸《ちよつと》失敬します。二階で珈琲《コーヒー》を飲んで来ますから。』
 と男が云ふと、
『私も行くわ。』
 と云つて、お嬢様は彼方《あちら》向いて男と一緒に行つた。緋の細工|羽二重《はぶたへ》の根掛《ねがけ》の菊が、今迄この人の顔の美しいのを眺めて酔つたやうに立つて居た辺《あた》りの人の目に映つた。平井は切符を買つて来た山崎を手招きして一緒に写真器の傍へ行つた。多くの僧俗に出迎はれて出て来た人は田鶴子姫《たづこひめ》ではなくて、金縁の目鏡《めがね》を掛けて法衣《はふえ》の下に紫の緞子《どんす》の袴《はかま》を穿《はい》た三十二三の痩《やせ》て脊《せ》の高い僧であつた。御門主《ごもんしゆ》、御門主《ごもんしゆ》と云ふ声が其処此処《そこここ》から起《おこ》つた。



底本:「東京朝日新聞」朝日新聞東京本社
   1912(明治45)年1月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
※脱落が疑われる、『汽車に乗つて今帰つたばかしなんですから。』の後の改行を補いました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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