男が其方へ行かうとすると、
『およしなさいよ、勝間さん。山崎さん先刻《さつき》ので買つて上げて頂載。』
とお嬢様は口早《くちばや》に云つた。[#「。」は底本では脱落]山崎は目で点頭《うなづ》いて駆けて行つた。平井は其跡を追つて行かうとした拍子に、手に持《もつ》たお納戸《なんど》のとクリイム色のと二本の傘を下に落《おと》した。顔を赤《あから》めてそれを拾はうとする時に、後《うしろ》から来た人は屈《かゞ》んだ平井の身体《からだ》を押したのでひよろひよろとした。
『ひどいこと。』
と云つて、平井は立つて髪に手をやつた。
『僕は一寸《ちよつと》失敬します。二階で珈琲《コーヒー》を飲んで来ますから。』
と男が云ふと、
『私も行くわ。』
と云つて、お嬢様は彼方《あちら》向いて男と一緒に行つた。緋の細工|羽二重《はぶたへ》の根掛《ねがけ》の菊が、今迄この人の顔の美しいのを眺めて酔つたやうに立つて居た辺《あた》りの人の目に映つた。平井は切符を買つて来た山崎を手招きして一緒に写真器の傍へ行つた。多くの僧俗に出迎はれて出て来た人は田鶴子姫《たづこひめ》ではなくて、金縁の目鏡《めがね》を掛けて法衣《はふえ》の下に紫の緞子《どんす》の袴《はかま》を穿《はい》た三十二三の痩《やせ》て脊《せ》の高い僧であつた。御門主《ごもんしゆ》、御門主《ごもんしゆ》と云ふ声が其処此処《そこここ》から起《おこ》つた。
底本:「東京朝日新聞」朝日新聞東京本社
1912(明治45)年1月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
※脱落が疑われる、『汽車に乗つて今帰つたばかしなんですから。』の後の改行を補いました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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