方向いた方には主人のルイと西班牙の踊子が居る。土の上に低い小い卓が出されて居て、リキユウル用の小いコツプが三つ程と、ビイルのコツプが二つと酒の瓶の二三本が置かれてある。向う向きのベンチにはおかみさんのブランシユとおしごとに来る小母さんが掛けて居る。ブランシユは髪針《ピン》を口に銜へながら、膝の上で附髷を結ひ直して居た。薄紺のジヤケツを着た西班牙女《イスパニヨル》が頻りに笑声を交ぜて話し立てて居る。前歯が抜けて居て糸切歯が牙のやうに光る小母さんは横向きになつて居るから、上からも鬼のやうな顔の線がよく動くことが見える。ルイは植木いぢりでもした跡か上はオリイブ色の襯衣だけで居た。二十八とかで評判の美男の彼の顔は上から見ると真中でもう少し禿げかけて居た。西班牙女は透き通るやうな気持の好い青味を交ぜた白い顔色で、黒瞳で笑ふ時も凄艶な怒りの影が見える濃い眉を持つて居る。頤が仏蘭西型よりは心持張つて見える。髪を尼そぎ程に頸の辺りで切放してあるのは何処の踊子もして居ることであるが、こんな房々とした厚い黒い毛を持つたのは珍しい。卓中の辻も二つに分けた前の分け目も、顔の色のそれよりもまた一層白く青く美くしく見られる。ルイの顔にも似ない赤茶をした毛の地の色の隣にあるから一層それが目立つても見えた。ものを云ひ云ひ西班牙女が身体を擦り寄せて行くのを、恐いやうにルイが少しづつ身を引くのがをかしくて、三階の窓の女は思はず微笑んだ。下卑た手附きで小母さんがビイルのコツプを取つてなみなみと注いで、一寸舌で嘗めて身体の横へ置いた。西班牙女がリキユウルのコツプを持つとルイが瓶を取つて注いでやつた。自身のにも注いでおかみさんに飲まないかと云ふと、ブランシユは忙しく首を振つた。小母さんがビイルはどうかと云ふやうなことを云つた。令嬢《マダマアゼル》とか夫人《マダム》とか名につけて云ふ若い女、どれも先づ自身よりは容貌の好い独身の女を七八人も家に置いて居るおかみさんの身になつたなら、遣る瀬ない腹立たしい思ひも時々はする筈なものであらうなどと上の女は思つて居た。そんな事ですつかり機嫌が直つてしまつた。
『一寸来て御覧なさいよ。あなた。』
『何があるのだ。』
『皆庭へ出て居ますわ。』
『さうかい。』
男は気のない声で云つて居た。
『下の西班牙人は綺麗ね。』
『さうかね。』
『あなたよく知らないのですか。』
『ときどき見る事があるやうだけれど。』
時々男が見ると云ふのは、この家の中では一番贅沢な飾りのされてある下の広間の戸口を開けたままで、寝台の上に手や肩を出してだらしなく寝そべつた時のあの女なのであらうかなどと女は思つて居た。下で木戸のがたんと閉る音がして、早足で敷石の上を歩いて来る靴の音がするので、女はまた顔を外へ出した。
『あら、奥さん、いいお帽子。』
と西斑牙女がはしやいだ声を低い金網垣の外へ掛けた。四人の目の前を
『今日は。』
聞えない程に云つて逃げるやうに薔薇の帽が上り口の石段を駆け上つた。
『あら、キキですわ。』
驚いたやうに女が云つた。
『キキが珍しいのかい。』
と云つて、男は立ち上らうとした。
『だつて、だつてもうお腹《なか》が大きくないのだもの。』
『嘘だらう。』
靴を穿いた男は草履穿の背の低い女の肩に手を掛けて下を覗いた。
『もう入つちやつたわ。どうしたのでせうね、それに好いなりをしてたわ。』
『少し妙だね。』
男は下から目を上げたルイと顔を見合せて
『今日は。[#「。」は底本では脱落]』
と云つて、首を一寸下げた。女はすつと窓から身を引いた。机の前の今迄男の居た椅子に掛けて
『踊子は綺麗でせう。』
と女は云ふ。
『さうだね、目が悪いから輪廓位しか見えないけれど。』
男が何時も自分に対して用心深く遠い所に線を張つて居るのが憎いと女は思つた。
『二階の伊太利亜人はどう。』
『あの人も出て居るかい。』
『出て居ないでせうよ。』
女は口早に云つた。
『今夜はハルギエエルへ行きませうか、あなた。』
『行つても好いよ。おまへが行きたければ。』
『そんなことをお云ひになると私の恋人でも彼処にあるやうね。』
男は長椅子に掛けて、其処にある煙草を飲まうとして居た。
『さう岸の禿頭だの、後藤の胡麻塩だの。』
『結構ですね、自分が一番立派だと思つて居らつしやるのだから。』
女も長椅子の方へ行つた。とんとんと扉を叩く音がする。
『お入り。』
と云ふと、女中のマリイがにたにたと笑つて首を振りながら入つて来た。掃除に廻つて来たのである。
『おいキキの奥さんはどうしたの。』
また窓の所に行つて立つて居た男は、赤い羽蒲団に手を掛けてめくりかけたマリイに云つた。
『キキ。』
マリイが問ひかへした。
『さう、さう。』
男が云ふと、其間休めて居た手を動かして
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