んですわ。
『君、此処ですよ、此処ですよ。』
 とその方は右の手を上げた。そしたら薄紺の服に変りチヨツキを着た人が走つて来ました。良人ぢやありません。横浜から神戸へ行く船で顔馴染になつた長谷部と云ふ画家なんです。良人が前へ来た。
 わたしは何時のまにかプラツトホオムへ降りて居ました。良人は綺麗な顔になつて居ました。
『…………。』
 良人の云ふことがよく耳に入りませんでした。
『あなたは櫻井さんでいらつしやいますか。』
『いいえ、わたしは福永です。』
 わたしはそれより前に長谷部さんと挨拶をしました。
『僕の宿のルイさんだ。』
 と云つて、良人は美くしい人に紹介をしてくれました。それからその方の伴の方にもねえ。
 車丁はわたしの室の窓から荷物を皆良人と長谷部さんなどに渡してくれましたよ。赤帽が二人で上手にそれを皆持ちましたよ。皆一緒に歩き出しました。わたしは仏蘭西の巴里へ来たと云ふよりも、日本人の居る国へ来たと云ふ気で居るんですね。
『わたしね、都合のいい寝台が御座いませんでね、一等車に乗り替へたんで御座いますよ。』
 かうぢやなかつた。良人にものを云ふのはかうした言葉づかひではないんだけれどとわたしの心では思つてるんです。
『わたしはお金をそんなに持つて居らなかつたんで御座います。』
 どうしてもわたしの口は云はうとする言葉でない言葉をばかり出しました。
『どうしたらいいかと存じましてね。』
 わたしは口がこはばる病になつたやうな不自由さを感じました。露西亜人や独逸人の中に居てもこんな苦しい胸を掻きむしりたいやうな気はしませんでしたよ。
 どうやらかうやら私は昨日の心配と、それを助けてくれた英国人の話とを良人にしました。
『ふうむ、ふうむ。』
 とばかり良人は云つてましたが、わたしはそれでもう安心をしました。
 わたしの姿が珍しいもの怪しいものと思はれて居るだらうと時々は感じるのですが、さうでない時は日本の何処かの端へ着いたやうな気で私は居るんでせうね。
 わたし達は手荷物を受取る処へ行きました。自身さへ無事に行ければあんなものなどはどうでもいいのだと思つて居た二つの鞄が直ぐ目の前へ運ばれて来ましたよ。綱で縛られてねえ。わたしはわたし、鞄は鞄で別れ別れに心細い旅をして来たと云ふやうな悲しい気がしましたわ。大きな鞄を開けましてね、三つ四つの懸子の一つ一つに美くしい衣服の入つてあるのを見ましてね、税を取らうと云ふ風を見せる人達に、灰色の髪の女がよくおしやべりをしますこと。
 わたしのはルイさんが説明したので直ぐ通りましたよ。
 自動車が雇はれましてね、わたし達日本人が四人乗りました。ルイさん達は外へ廻るんですつて。
 向うの角《かど》に軒が張り出してあつて、いい形に反つた椅子が沢山並べてあつて、男や女がその店に沢山居る家がありましたよ。わたしが恐る恐る巴里と云ふ都に目を向けたこれが初めです。
『奥さん、えらいですね、あなたわ。』
 長谷部さんです。こんなことを向ひ合つてる私に云ふのは。
『さうぢやありませんわ。』
 わたしは福永さんとももう親しい言葉を交して居ました。
『昨日からわたし何も食べないんですよ。』
 わたしは誰に云ふともなしに。
『さうか。』
 と云つて、良人はじつとわたしの顔を眺めました。
『でも別に食べたくなんかありませんわ。あなた。』
 初めて云へましたの、すらすらと良人にね。
 小雨のあとのしんみりと湿つた土を踏んで行くやうな気持を覚えさせられて、わたしは街を通つて居ましたよ。
 十分位でもう※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]クトルマツセ町へ来たのかして、自動車が止りました。古着屋の店の前でねえ。
『此処。』
『ああ。』
 良人は誰よりも先に飛んで降りました。
 古着屋の隣の門に、群青地に白の二十一と云ふ番地のしるしが出て居ましたよ。
 荷物などは自身で持つて行かなければならないものと見えてね、一つの鞄を持つて良人は門の中の敷石の道を奥へ行きましたよ。長谷部さんもねえ。良人が二度目のをまた持つて行く。福永さんもねえ。わたしも悪いので信玄袋を持たうと思ひましたけれど、大きくつて重くつてねえ。
 わたしは何も持たずに入つて行つたわ。
 奥の正面にまた門はあるんですが、左の低い枝折戸のやうな木の庭口の附いたのがルイさんの家らしいんです。戸口の前に荷物が皆置かれてましたよ。
 アカシヤの木があつて、その向うは低い平家で、後はまた高い青葉の木でした。アカシヤの枝の下には草の花がいつぱい咲いて居ました。良人が鞄を何度にも運んで行く間わたしは其処で立つて居なければなりませんでしたわ。その時分にわたしはもう直ぐ前の一階の出窓に居る白いものを着た女二人に眺められて居ました。美くしい人の横から棕梠竹の葉が少し見えましたのよ。
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