人間として姑と嫁と、又は男と女との差が非常なのですから、言ひ換へればどちらも後者が前者に殆ど人と物との關係で權利を無視されて居るのですから、兩者の間に何か問題が起れば太抵の場合兩者を對等に批判してはなりません。後者は常に壓制され、凌辱され、常に卑下し、忍從して居るものであると云ふことを念頭に置いて、同じ過失と罪惡にしても、男を批難することは七分、女を批難することは三分と云ふ割合で對せねば公平を得られないでせう。後者には其れだけの斟酌をすべきいろいろの情状があるのです。其情状と云ふものは女自身の無智から、又は生理關係、心理關係に由るのもありますが、大部分は男子の横暴と、男子自身のために作った道徳習慣が勢力を張つて居る不完全な社會状態とから餘儀なくされて居るのです。女の無智と云ふのも女の先天性ではなくて社會の習慣が女を教育しなかつたからです。
例へば姑が嫁の髻を掴んで打擲したり、燒火箸や刄物で傷害したり、毒を呑ませようと謀つたりする事實が昔から日本の家庭に存在して居ます。それは日本の道徳習慣では大した罪惡と認められて居ません。さう云ふ事實があつても姑根性として寛假されます。それが假にも姑を離縁し若くは別居せしめる理由にはなつて居ません。姑は如何なる場合も尼將軍として若夫婦に臨む權利を持つて居ます。嫁に危害を加へ、又は嫁と不折合のために親族會議が其姑を離別する決議を實行した例を知りません。之に反して嫁は姑の下にあつて常に實家の生母に對するよりも幾倍の柔順と忍從を餘儀なくされます。さうして姑の意を迎へないでする嫁の言行はそれが過失であり、不孝であり、罪惡であるらしく殆ど寸毫も假借されないのが普通です。其れが過失と云ふ程のものでなくても、姑の機嫌に逆へば、良人の愛の有無や良人の意見に頓着なく、また勿論嫁の辯解を取り上げること無しに、それを直ぐに離縁の理由として姑は息子に迫り、息子は已むを得ず其妻に離別を宣告する結果になります。姑が或理由を附して嫁を離別させるのはまだ好い方であつて甚しきは理由が無いと唯だ無茶苦茶に苛《いぢ》め通した擧句、姑の一存で嫁を追ひ返してしまふ例さへ珍しくないのです。嫁がさう云ふ不法な姑に對して正當な自由を主張することは在來の道徳習慣が全く許しません。まして反抗の態度にでも出たら姑からばかりでなく社會からも不貞不孝の惡名を着せられますから、太抵は嫁の方
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