心を労するような時代遅れの生活に甘んじまい。欧米の老婦人たちが若い婦人と協力して諸種の社会事業や婦人問題に努力するように、日本の老婦人も何かの有用な事業に活動しようとするかも知れない。活動は人を若返らせる回春薬の最上の物である。そうなれば境遇から得た孤独の悲哀や、僻みや、老婦人の生理的変化から得た病的心理なども大に減少され緩和されるであろう。
しかしこれは私の空想かも知れない。政界に元老という物があって、精神も体質も変兆を来《きた》していながら、老人の親切から政府当局者の施設に干渉してかえって国民を迷惑がらせている。そして元老の頭というものは到底国民の自由思想と一致する見込のないものである。家庭における現在の姑と若夫婦との思想も元老と国民とのそれのように全く相容《あいい》れないものかも知れない。
現在の姑たちについて私の考は右のように希望と悲観と半《なかば》しているが、しかし未来の姑については全く新しい紀元の開かれることを期待している。今日の教育ある若い妻はその程度に差があっても、概して幾分ずつか皆新しい妻である。私は出来るだけ自治独立の生活を送ろうとしていると共に、他の自治独立の生活をも尊重したいと思っている。結婚して一家を営むに至った我子夫婦は既に分封した自治独立の一団であるから、私は全然その生活に干渉したくない。在来の父母舅姑は我子夫婦から財養し孝養されることを望んだのであるが、私は我子が独立し得るまでの教育にはあくまでも力を竭《つく》す覚悟でいる代りに、我子からその報償を得ようとは毛頭考えていない。まだ私は家系、家風などという物も少しも尊重すべき物と思っていないのであるから、子供らが何処へ行って自治の生活を始めてもそれを祝福する外に何の註文もない。独立するに至った我子には絶対に干渉しないつもりであるから親の名を以て威圧がましいことをしないのは勿論である。私は今から幼い子供たちに各自の意見を親の前で大胆に述べる習慣を附けている。それは私と子供たちとの思想が他日相反する時があっても互に気兼《きがね》せずに研究し合って理解することの出来るようにと思うからである。夫婦、親子、朋友《ほうゆう》の愛も初めの中は感情一偏の愛であるが、少し年齢が長《た》けて行った後に誠実と知性との理解が伴わない愛は危い。感情と知性と誠実がすっきり透き徹《とお》るように融《と》け合えば夫婦親子は勿論、我子の嫁とも一切の他人とも愛し得られるものであろうと私は思っている。既に新しい妻である私は他日こういう思想の上に立って新しい姑ともなるつもりである。しかし我子夫婦に対するこういう意味の生活は最早母と子、姑と嫁という関係でなくて、年齢の違った一種特別の親友という関係に近いであろう。親友の間には威圧も、屈従も、僻みも、排擠《はいせい》もない。そして世には思想の合った親友も相反した親友もあり得る。また快濶な競争の上に成立つ親友もあり得る。私は命の限り、はた天分の尽きない限り、他人とするように我子夫婦とも愛と誠実と思想との快濶な競争を続けたいと考えている。(一九一五年八月)
[#下げて、地より1字あきで](『太陽』一九一五年九月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人及び女として」天弦堂書房
1916(大正5)年4月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年1月10日公開
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:
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