いる時であれば必ずとめるに違いないと思うと、遂行が不可能になるのが残念に思われる浮舟の君は、
「ただ病気のためにそういたしましたようになりましては効力が少のうございましょう。私はかなり身体《からだ》の調子が悪いのでございますから、重態になりましたあとでは形式だけのことのようになるのが残念でございますから、無理なお願いではございますが今日《こんにち》に授戒をさせていただきとうございます」
 と言って、姫君は非常に泣いた。単純な僧の心にはこれがたまらず哀れに思われて、
「もう夜はだいぶふけたでしょう。山から下って来ることを、昔は何とも思わなかったものだが、年のいくにしたがって疲れがひどくなるものだから、休息をして御所へまいろうと私は思ったのだが、そんなにも早いことを望まれるのならさっそく戒を授けましょう」
 と言うのを聞いて浮舟はうれしくなった。鋏《はさみ》と櫛《くし》の箱の蓋《ふた》を僧都の前へ出すと、
「どこにいるかね、坊様たち。こちらへ来てくれ」
 僧都は弟子《でし》を呼んだ。はじめに宇治でこの人を発見した夜の阿闍梨《あじゃり》が二人とも来ていたので、それを座敷の中へ来させて、
「髪をお切り申せ」
 と言った。道理である、まれな美貌《びぼう》の人であるから、俗の姿でこの世にいては煩累となることが多いに違いないと阿闍梨らも思った。そうではあっても、几帳《きちょう》の垂帛《たれぎぬ》の縫開《ぬいあ》けから手で外へかき出した髪のあまりのみごとさにしばらく鋏の手を動かすことはできなかった。
 座敷でこのことのあるころ、少将の尼は、それも師の供をして下って来た兄の阿闍梨と話すために自室に行っていた。左衛門《さえもん》も一行の中に知人があったため、その僧のもてなしに心を配っていた。こうした家ではそれぞれの懇意な相手ができていて、馳走《ちそう》をふるまったりするものであったから。こんなことでこもき[#「こもき」に傍点]だけが姫君の居間に侍していたのであるが、こちらへ来て、少将の尼に座敷でのことを報告した。少将があわてふためいて行って見ると、僧都は姫君に自身の法衣《ほうえ》と袈裟《けさ》を仮にと言って着せ、
「お母様のおいでになるほうにと向かって拝みなさい」
 と言っていた。方角の見当もつかないことを思った時に、忍びかねて浮舟は泣き出した。
「まあなんとしたことでございますか。思慮の欠けたことをなさいます。奥様がお帰りになりましてどうこれをお言いになりましょう」
 少将はこう言って止めようとするのであったが、信仰の境地に進み入ろうと一歩踏み出した人の心を騒がすことはよろしくないと思った僧都が制したために、少将もそばへ寄って妨げることはできなかった。「流転三界中《るてんさんがいちゅう》、恩愛不能断《おんあいふのうだん》」と教える言葉には、もうすでにすでに自分はそれから解脱《げだつ》していたではないかとさすがに浮舟をして思わせた。多い髪はよく切りかねて阿闍梨が、
「またあとでゆるりと尼君たちに直させてください」
 と言っていた。額髪の所は僧都《そうず》が切った。
「この花の姿を捨てても後悔してはなりませんぞ」
 などと言い、尊い御仏の御弟子の道を説き聞かせた。出家のことはそう簡単に行くものでないと尼君たちから言われていたことを、自分はこうもすみやかに済ませてもらった。生きた仏はかくのごとく効験を目《ま》のあたりに見せるものであると浮舟は思った。
 僧都の一行の出て行ったあとはまたもとの静かな家になった。夜の風の鳴るのを聞きながら尼女房たちは、
「この心細い家にお住みになるのもしばらくの御|辛抱《しんぼう》で、近い将来に幸福な御生活へおはいりになるものと、あなた様のその日をお待ちしていましたのに、こんなことを決行しておしまいになりまして、これからをどうあそばすつもりでございましょう。老い衰えた者でも出家をしてしまいますと、人生へのつながりがこれで断然切れたことが認識されまして悲しいものでございますよ」
 なおも惜しんで言うのであったが、
「私の心はこれで安静が得られてうれしいのですよ。人生と隔たってしまったのはいいことだと思います」
 こう浮舟は答えていて、はじめて胸の開けた気もした。
 翌朝になるとさすがにだれにも同意を求めずにしたことであったから、その人たちに変わった姿を見せるのは恥ずかしくてならぬように思う姫君であった。髪の裾《すそ》がにわかに上の方へ上がって、もつれもできて拡《ひろ》がった不ぞろいになった端を、めんどうな説法などはせずに直してくれる人はないであろうかと思うのであるが、何につけても気おくれがされて、居間の中を暗くしてすわっていた。自分の感想を人へ書くようなことも、もとからよくできない人であったし、ましてだれを対象として叙述し
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