悲しくなり、
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うき世にはあらぬ所を求めても君が盛りを見るよしもがな
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歌らしくもないこんな歌をよみ、親子はそうした贈答を心の慰めにした。
例年のように秋のふけて行くころになれば、寝ざめ寝ざめに故人のことばかりの思われて悲しい薫は、御堂《みどう》の竣成したしらせがあったのを機に宇治の山荘へ行った。かなり久しく出て来なかったのであったから、山の紅葉《もみじ》も珍しい気がしてながめられた。毀《こぼ》ったあとへ新たにできた寝殿は晴れ晴れしいものになっているのであった。簡素に僧のように八の宮の暮らしておいでになった昔を思うと、その方の恋しく思われる薫は、改築したことさえ後悔される気になり、平生よりも愁《うれ》わしいふうであたりをながめていた。当時の山荘の半分は寺に似た気分が出ていたが、半分は繊細に優しく女王《にょおう》たちの住居《すまい》らしく設備《しつら》われてあったのを、網代屏風《あじろびょうぶ》というような荒々しい装飾品は皆薫の計らいで御堂の坊のほうへ運ばせてしまい、そして風雅な山荘に適した道具類を別に造らせて、ことさら簡素に見せようともせず、きれいに上品な貴人の家らしく飾らせてあった。小流れのそばの岩に薫は腰を掛けていたが、その座は離れにくかった。
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絶えはてぬ清水《しみず》になどかなき人の面影をだにとどめざりけん
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と歌い、涙をふきながら弁の尼の室《へや》のほうへ来た薫を、尼は悲しがって見た。座敷の長押《なげし》へ仮なように身体《からだ》を置いて、御簾《みす》の端を引き上げながら薫は話した。弁の尼は几帳《きちょう》で姿を包んでいた。薫は話のついでに、
「あの話の人ね、せんだって二条の院に来ていられると聞いていましたがね、今さら愛を求めに歩く男のようなことは私にできなくて、そのままにしていますよ。やはりこの話はあなたから言ってくださるほうがいい」
人型《ひとがた》の姫君のことを言いだした。
「この間あのお母様から手紙がまいりました。謹慎日の場所を捜しあぐねて、あちらこちらとお変わらせしていますってね。そして現在もみじめな小家などにお置きしているのがおかわいそうなのですが、もう少し近い所ならお住ませするのにそちらは最も安心のできる所と思いますが、荒い山路《やまみち》が中にあることを思うと躊躇《ちゅうちょ》がされて実行ができませんと、こんなことを書いて来ておりました」
「私だけはだれも皆恐ろしがるその山道をいつまでも飽かずに出て来る人なのですね。どんな深い宿縁があってのことかと思うのは身にしむことですよ」
例のように薫は涙ぐんでいた。
「ではその小さい簡単な家というのへ手紙をやってください。あなた自身で出かけてくれませんか」
と言う。
「あなた様の御用を勤めますことは喜んでいたしますが、京へ出ますことはいやでございましてね、二条の院へさえ私はまだ伺わないのでございます」
「いいではありませんか、いちいちあちらへ報告されるのであれば遠慮もいるでしょうが、愛宕《あたご》山にこもった上人《しょうにん》も利生方便《りしょうほうべん》のためには京へ出るではありませんか。仏へ立てた誓いを破った人の願いのかなうようにされることも大|功徳《くどく》じゃありませんか」
「でも『人わたすことだになきを』(何をかもながらの橋と身のなりにけん)と申しますような老朽した尼が、ある事件に策動したという評判でも立ちましてはね」
と言い、弁が躊躇して行こうとしないのを、
「ちょうどそんな仮住みをしているのは都合がよいというものですから、そうしてください」
例の薫のようでもなくしいて言い、
「明後日《あさって》あたりに車をよこしましょう。そして仮住居の場所を車の者へ教えておいてください。私が訪《たず》ねて行くことがあっても無法なことなどできるものではないから安心なさい」
と微笑しながら言うのを弁は聞いていて、迷惑なことが引き起こされるのではなかろうかと思いながらも、大将は浮薄な性質の人ではないのであるから、自分のためにも慎重に考えていてくれるに違いないという気になった。
「それでは承知いたしました。お邸《やしき》とは近いのでございますから、そちらへお手紙を持たせておつかわしくださいませ。平生行きません所へそのお話を私が独断《ひとりぎめ》で来てするように思われますのも、今さら伊賀刀女《いがとうめ》(そのころ媒介をし歩いた種類の女)になりましたようできまりが悪うございます」
「手紙を書くことはなんでもありませんがね、人はいろいろな噂《うわさ》をしたがるものですからね、右大将は常陸守《ひたちのかみ》の娘に恋をしているというようなことが言われそうで危険《けんのん》ですよ。その常陸の旦那《だんな》は荒武者なんだってね」
と薫が言ったので弁は笑ったが、心では姫君がかわいそうに思われた。
暗くなりかかったので大将は帰って行くのであった。林の下草の美しい花や、紅葉《もみじ》を折らせた薫は夫人の宮にそれらをお見せした。りっぱな方なのであるが敬遠した形で、良人《おっと》らしい親しみを薫は持たないらしい。帝《みかど》からは普通の父親のように始終尼宮へお手紙で頼んでおいでになるのでもあって、薫は女二《にょに》の宮《みや》をたいせつな人にはしていた。宮中、院の御所へのお勤め以外にまた一つの役目がふえたように思われるのもこの人に苦しいことであった。
薫は弁に約束した日の早朝に、親しい下級の侍に、人にまだ顔を知られていぬ牛付き男をつれさせて山荘へ迎えに出した。荘園のほうにいる男たちの中から田舎《いなか》者らしく見えるのを選んでつけさせるように薫は命じてあった。
ぜひ出てくるようにとの薫の手紙であったから、弁の尼はこの役を勤めることが気恥ずかしく、気乗りもせず思いながら化粧をして車に乗った。野路《のみち》山路《やまみち》の景色《けしき》を見ても、薫が宇治へ来始めたころからのことばかりがいろいろと思われ、総角《あげまき》の姫君の死を悲しみ続けて目ざす家へ弁は着いた。簡単な住居《すまい》であったから、気楽に門の中へ車を入れ、自身の来たことをついて来た侍に言わせると、姫君の初瀬詣《はせもう》での時に供をした若い女房が出て来て、車から下《お》りるのを助けてくれた。
つまらぬ庭ばかりをながめて日を送っていた姫君は、話のできる人の来たのを喜んで居間へ通した。親であった方に近く奉公した人と思うことで親しまれるのであるらしい。
「はじめてお目にかかりました時から、あなたに昔の姫君のお姿がそのまま残っていますことで、始終恋しくばかりお思いするのでしたが、こんなにも世の中から離れてしまいました身の上では兵部卿《ひょうぶきょう》の宮様のほうへも伺いにくくてまいれませんほどで、ついお訪《たず》ねもできないのでございました。それなのに、右大将が御自分のためにぜひあなたへお話を申しに行けとやかましくおっしゃるものですから、思い立って出てまいりました」
と弁は言った。姫君も乳母《めのと》もりっぱな風采《ふうさい》を知っていた大将であったから、まだあの話を忘れずに続けて申し込んでくれることに喜びは覚えたのであるが、こんなに急に策を立てて接近しようと薫がしていたことには気づかない。
夜の八時過ぎに宇治から用があって人が来たと言って、ひそかに門がたたかれた。弁は薫であろうと思っているので、門をあけさせたから、車はずっと中へはいって来た。家の人は皆不思議に思っていると、尼君に面会させてほしいと言い、宇治の荘園の預かりの人の名を告げさせると、尼君は妻戸の口へいざって出た。小雨が降っていて風は冷ややかに室《へや》の中へ吹き入るのといっしょにかんばしいかおりが通ってきたことによって、来訪者の何者であるかに家の人は気づいた。だれもだれも心ときめきはされるのであるが、何の用意もない時であるのに、あわてて、どんな相談を客は尼としてあったのであろうと言い合った。
「静かな所で、今日までどんなに私が思い続けて来たかということもお聞かせしたいと思って来ました」
と薫は姫君へ取り次がせた。どんな言葉で話に答えていけばよいかと心配そうにしている姫君を、困ったものであるというように見ていた乳母が、
「わざわざおいでになった方を、庭にお立たせしたままでお帰しする法はございませんよ。本家の奥様へ、こうこうでございますとそっと申し上げてみましょう。近いのですから」
と言った。
「そんなふうに騒ぐことではありませんよ。若い方どうしがお話をなさるだけのことで、そんなにものが進むことですか。怪しいほどにもおあせりにならない落ち着いた方ですもの、人の同意のないままで恋を成立させようとは決してなさいますまい」
こう言ってとめたのは弁の尼であった。雨脚《あめあし》がややはげしくなり、空は暗くばかりなっていく。宿直《とのい》の侍が怪しい語音《ごいん》で家の外を見まわりに歩き、
「建物の東南のくずれている所があぶない、お客の車を中へ入れてしまうものなら入れさせて門をしめてしまってくれ、こうした人の供の人間に油断ができないのだよ」
などと言い合っている声の聞こえてくるようなことも薫にとって気味の悪いはじめての経験であった。「さののわたりに家もあらなくに」(わりなくも降りくる雨か三輪が崎《さき》)などと口ずさみながら、田舎《いなか》めいた縁の端にいるのであった。
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さしとむるむぐらやしげき東屋《あづまや》のあまりほどふる雨そそぎかな
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と言い、雨を払うために振った袖の追い風のかんばしさには、東国の荒武者どもも驚いたに違いない。
室内へ案内することをいろいろに言って望まれた家の人は、断わりようがなくて南の縁に付いた座敷へ席を作って薫《かおる》は招じられた。姫君は話すために出ることを承知しなかったが、女房らが押し出すようにして客の座へ近づかせた。遣戸《やりど》というものをしめ、声の通うだけの隙《すき》があけてある所で、
「飛騨《ひだ》の匠《たくみ》が恨めしくなる隔てですね。よその家でこんな板の戸の外にすわることなどはまだ私の経験しないことだから苦しく思われます」
などと訴えていた薫は、どんなにしたのか姫君の居室《いま》のほうへはいってしまった。
人型《ひとがた》としてほしかったことなどは言わず、ただ宇治で思いがけぬ隙間《すきま》からのぞいた時から恋しい人になったことを言い、これが宿縁というものか怪しいまで心が惹《ひ》かれているということをささやいた。可憐《かれん》なおおような姫君に薫は期待のはずれた気はせず深い愛を覚えた。
そのうち夜は明けていくようであったが、鶏《とり》などは鳴かず、大通りに近い家であったから、通行する者がだらしない声で、何とかかとか、有る名でないような名を呼び合って何人もの行く物音がするのであった。こんな未明の街《まち》で見る行商人などというものは、頭へ物を載せているのが鬼のようであると聞いたが、そうした者が通って行くらしいと、泊まり馴《な》れない小家に寝た薫はおもしろくも思った。宿直《とのい》した侍も門をあけて出て行く音がした。また夜番をした者などが部屋《へや》へ寝にはいったらしい音を聞いてから、薫は人を呼んで車を妻戸の所へ寄せさせた。そして姫君を抱いて乗せた。家の人たちはだれも皆結婚の翌朝のこうしたことをあっけないように言って騒ぎ、
「それに結婚に悪い月の九月でしょう。心配でなりません、どうしたことでしょう」
とも言うのを、弁は気の毒に思い、
「すぐおつれになるなどとは意外なことに違いありませんが、殿様にはお考えがあることでしょう。心配などはしないほうがいいのですよ。九月でも明日が節分になっていますから」
と慰めていた。この日は十三日であった。尼は、
「今度はごいっしょにまいらないことにいたしましょう。二条の院の奥様が私のまいったことをお聞きに
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