人型《ひとがた》もまた無用とするかもしれないのであると思い直しもした。山荘に備えつけてあった琴や十三|絃《げん》を出させて、こうしたたしなみはましてないであろうと残念な気のする薫は一人で弾《ひ》きながら、宮がお亡《かく》れになったのち、この家で楽器などというものに久しく手を触れたことがなかったと、自身の爪音《つまおと》さえも珍しく思われ、なつかしい絃声を手探りで出し、目は昔の夢を見るように外へ注いでいるうちに、月も出てきた。宮の琴の音は、音量の豊かなものではなかったが、美しい声が出て身にしむところがあったと思い、
「あなたが宮様もお姉様もおいでになったころに、ここで大人《おとな》になっていたら、あなたの価値はもっとりっぱになっていたでしょうね。宮様の御様子は子でない私でさえ始終恋しく思い出されるのですよ。どうしてあなたは遠い国などから長く帰れなかったのだろう」
 薫のこう言うのを恥ずかしく聞いて、手で白い扇をもてあそびながら横たわっている姫君の顔色は、透くように白くて、艶《えん》な額髪の所などが総角《あげまき》の姫君をよく思い出させ、薫は心の惹《ひ》かれるのを覚えた。ほかの教育はともかく、こうした音楽などは自分の手で教えて行きたいと薫は思い、
「こんなものを少しやってみたことがありますか。吾《わ》が妻《つま》という琴などは弾いたでしょう」
 などと問うてみた。
「そうしたやまと言葉も使い馴《な》れないのですもの、まして音楽などは」
 姫君はこう答えた。機智《きち》もありそうには見えた。この山荘に置いて、思いのままに来て逢うことのできないのを今すでに薫は苦痛と覚えるのは深く愛を感じているからなのであろう。楽器は向こうへ押しやって、「楚王台上夜琴声《そわうだいじやうのよるのきんせい》」と薫が歌い出したのを、姫君の上に描いていた美しい夢が現実のことになったように侍従は聞いて思っていた。その詩は前の句に「斑女閨中秋扇色《はんによけいちゆうしうせんのいろ》」という女の悲しい故事の言われてあることも知らない無学さからであったのであろう。悪いものを口にしたと薫はあとで思った。
 尼君のほうから菓子などが運ばれてきた。箱の蓋《ふた》へ楓《かえで》や蔦《つた》の紅葉《もみじ》を敷いてみやびやかに菓子の盛られてある下の紙に、書いてある字が明るい月光で目についたのを、よく読もうと顔を寄せ
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