に視野をさえぎる涙を覚えた。外をながめながら後ろの板へよりかかっていた薫の重なった袖《そで》が、長く外へ出ていて、川霧に濡《ぬ》れ、紅《あか》い下の単衣《ひとえ》の上へ、直衣《のうし》の縹《あさぎ》の色がべったり染まったのを、車の落とし掛けの所に見つけて薫は中へ引き入れた。

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かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな
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 この歌を心にもなく薫が口に出したのを聞いていて尼は袖を絞るほどにも涙で濡らしていた。若い侍従は奇怪な現象である、うれしいはずの晴れの旅ではないかと不快がっていた。おさえ切れぬらしい弁の忍び泣きの声を聞いていて、自身も涙をすすり上げた薫は、新婦がどう思うことであろうと心苦しくなって、
「長い間この路《みち》を通って行ったものだと思うと、なんということなしに身にしむものが覚えられますよ。少し起き上がってこの辺の山の景色《けしき》なども御覧なさい。あまりに引っ込んでばかりいるではありませんか」
 と、慰めるように言って、しいて身体《からだ》を起こさせると、姫君は美しい形に扇で顔をさし隠しながら、恥ずかしそうにあたりを見まわした目つきなどは総角《あげまき》の姫君を思い出させるのに十分であったが、おおように過ぎてたよりないところがこの人にはあって、あぶなっかしい気がされなくもなかった。若々しくはありながら自己を護《まも》る用意の備わった人であったのをこれに比べて思うことによって、昔を思う薫の悲しみは大空をさえもうずめるほどのものになった。
 山荘へ着いた時に薫は、その人でない新婦を伴って来たことを、この家にとまっているかもしれぬ故人の霊に恥じたが、こんなふうに体面も思わぬような恋をすることになったのはだれのためでもない、昔が忘れられないからではないかなどと思い続けて、家へはいってからは新婦をいたわる心でしばらく離れていた。女は母がどう思うであろうと歎かわしい心を、艶《えん》な風采《ふうさい》の人からしんみりと愛をささやかれることに慰めて車から下《お》りて来たのであった。
 尼君は主人たちの寝殿の戸口へは下りずに、別な廊のほうへ車をまわさせて下りたのを、それほど正式にせずともよい山荘ではないかと薫は思ったのであった。荘園のほうからは例のように人がたくさん来た。薫の食事はそちらから運ばれ、姫君のは弁の
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