ち》が中にあることを思うと躊躇《ちゅうちょ》がされて実行ができませんと、こんなことを書いて来ておりました」
「私だけはだれも皆恐ろしがるその山道をいつまでも飽かずに出て来る人なのですね。どんな深い宿縁があってのことかと思うのは身にしむことですよ」
例のように薫は涙ぐんでいた。
「ではその小さい簡単な家というのへ手紙をやってください。あなた自身で出かけてくれませんか」
と言う。
「あなた様の御用を勤めますことは喜んでいたしますが、京へ出ますことはいやでございましてね、二条の院へさえ私はまだ伺わないのでございます」
「いいではありませんか、いちいちあちらへ報告されるのであれば遠慮もいるでしょうが、愛宕《あたご》山にこもった上人《しょうにん》も利生方便《りしょうほうべん》のためには京へ出るではありませんか。仏へ立てた誓いを破った人の願いのかなうようにされることも大|功徳《くどく》じゃありませんか」
「でも『人わたすことだになきを』(何をかもながらの橋と身のなりにけん)と申しますような老朽した尼が、ある事件に策動したという評判でも立ちましてはね」
と言い、弁が躊躇して行こうとしないのを、
「ちょうどそんな仮住みをしているのは都合がよいというものですから、そうしてください」
例の薫のようでもなくしいて言い、
「明後日《あさって》あたりに車をよこしましょう。そして仮住居の場所を車の者へ教えておいてください。私が訪《たず》ねて行くことがあっても無法なことなどできるものではないから安心なさい」
と微笑しながら言うのを弁は聞いていて、迷惑なことが引き起こされるのではなかろうかと思いながらも、大将は浮薄な性質の人ではないのであるから、自分のためにも慎重に考えていてくれるに違いないという気になった。
「それでは承知いたしました。お邸《やしき》とは近いのでございますから、そちらへお手紙を持たせておつかわしくださいませ。平生行きません所へそのお話を私が独断《ひとりぎめ》で来てするように思われますのも、今さら伊賀刀女《いがとうめ》(そのころ媒介をし歩いた種類の女)になりましたようできまりが悪うございます」
「手紙を書くことはなんでもありませんがね、人はいろいろな噂《うわさ》をしたがるものですからね、右大将は常陸守《ひたちのかみ》の娘に恋をしているというようなことが言われそうで危険《け
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