ちらへ行ってもしまわないのを哀れに思う薫であった。
「こうしてお隣にいることだけを慰めに思って今夜は明かしましょう。決して決してこれ以上のことを求めません」
 と言い、襖子を中にしてこちらの室《へや》で眠ろうとしたが、ここは川の音のはげしい山荘である、目を閉じてもすぐにさめる。夜の風の声も強い。峰を隔てた山鳥の妹背《いもせ》のような気がして苦しかった。いつものように夜が白《しら》み始めると御寺《みてら》の鐘が山から聞こえてきた。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮を気にして咳《せき》払いを薫《かおる》は作った。実際妙な役をすることになったものである。

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「しるべせしわれやかへりて惑ふべき心もゆかぬ明けぐれの道
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 こんな例が世間にもあるでしょうか」
 と薫が言うと、

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かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば
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 ほのかに姫君の答える歌も、よく聞き取れぬもどかしさと飽き足りなさに、
「たいへんに遠いではありませんか。あまりに御同情のないあなたですね」
 恨みを告げているころ、ほのぼのと夜の明けるのにうながされて兵部卿の宮は昨夜《ゆうべ》の戸口から外へおいでになった。柔らかなその御動作に従って立つ香はことさら用意して燻《た》きしめておいでになった匂宮らしかった。
 老いた女房たちはそことここから薫の帰って行くことに不審をいだいたが、これも中納言の計ったことであれば安心していてよいと考えていた。
 暗い間に着こうと京の人は道を急がせた。帰りはことに遠くお思われになる宮であった。たやすく常に行かれぬことを今から思召《おぼしめ》すからである。しかも「夜をや隔てん」(若草の新手枕《にひてまくら》をまきそめて夜をや隔てん憎からなくに)とお思われになるからであろう。まだ人の多く出入りせぬころに車は六条院に着けられ、廊のほうで降りて、女乗りの車と見せ隠れるようにしてはいって来たあとで顔を見合わせて笑った。
「あなたの忠実な御奉仕を受けたと感謝しますよ」
 宮はこう冗談《じょうだん》を仰せられた。自身の愚かしさの人のよさがみずから嘲笑《ちょうしょう》されるのであるが、薫は昨夜の始末を何も申し上げなかった。すぐ宮は文《ふみ》を書いて宇治へお送りになった。
 山荘の女王はどちらも夢を見
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