を院はおながめになった。夕霧は、

[#ここから2字下げ]
郭公《ほととぎす》君につてなん古さとの花|橘《たちばな》は今盛りぞと
[#ここで字下げ終わり]

 と歌った。この時に女房たちもそれぞれ歌を詠《よ》んだのであるがここには省いておく。
 大将はそのまま宿直《とのい》することにした。御独居生活の心苦しさに時々夕霧はこうしておそばで泊まってゆくのであるが、紫の女王のいたころにはたやすく近い所へも寄ることを院はお許しにならなかった帳台のかたわらに寝ることによっても、大将は昔が今にならぬことを悲しんだ。
 暑いころに涼しい水亭《すいてい》に出て院がながめておいでになる池には、蓮《はす》の花が盛りに咲いていた。恋しい人への追懐のためにこの花の前にもうつろな気持ちを覚えておいでになるうちに、日も暮れに近くなった。はなやかに蜩《ひぐらし》の鳴く声を聞きながら、撫子《なでしこ》が夕映《ゆうば》えの空の美しい光を受けている庭もただ一人見ておいでになることは味気ないことでおありになった。

[#ここから2字下げ]
つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかごとがましき虫の声かな
[#ここで字下げ終わり]

 蛍《ほたる》が多く飛びかうのにも、「夕殿《せきでん》に蛍飛んで思ひ悄然《せうぜん》」などと、お口に上る詩も楊妃《ようひ》に別れた玄宗の悲しみをいうものであった。

[#ここから2字下げ]
夜を知る蛍を見ても悲しきは時ぞともなき思ひなりけり
[#ここで字下げ終わり]

 七月七日も例年に変わった七夕《たなばた》で、音楽の遊びも行なわれずに、寂しい退屈さをただお感じになる日になった。星合いの空をながめに出る女房もなかった。
 未明に一人|臥《ぶ》しの床をお離れになって妻戸をお押しあけになると、前庭の草木の露の一面に光っているのが、渡殿《わたどの》のほうの入り口越しに見えた。縁の外へお出になって、

[#ここから2字下げ]
七夕の逢《あ》ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭の露ぞ置き添ふ
[#ここで字下げ終わり]

 こう口ずさんでおいでになった。
 秋風らしい風の吹き始めるころからは法事の仕度《したく》のために、院のお悲しみも少し紛れていた。あれから一年たったかとお思いになると呆然《ぼうぜん》ともおなりになるのである。命日である十四日には上から下まで六条院の中の人々は精進潔斎して、曼陀羅《まん
前へ 次へ
全15ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング