源氏物語
柏木
紫式部
與謝野晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)右衛門督《うえもんのかみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|冗談《じょうだん》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]死ぬる日を罪むくいなど言ふきはの涙
[#地から3字上げ]に似ざる火のしづくおつ (晶子)
右衛門督《うえもんのかみ》の病気は快方に向くことなしに春が来た。父の大臣と母夫人の悲しむのを見ては、死を願うことは重罪にあたることであると一方では思いながらも、自分は決して惜しい身でもない、子供の時から持っていた人に違った自尊心も、ある一つ二つの場合に得た失望感からゆがめられて以来は厭世《えんせい》的な思想になって、出家を志していたにもかかわらず、親たちの歎《なげ》きを顧みると、この絆《ほだし》が遁世《とんせい》の実を上げさすまいと考えられて、自己を紛らしながら俗世界にいるうちに、ついに生きがたいほどの物思いを同時に二つまで重ねてする身になったことは、だれを恨むべくもない自己のあやまちである、神も仏も冥助《みょうじょ》を垂《た》れたまわぬ境界に堕《お》ちたのは、皆前生での悲しい約束事であろう、だれも永久の命を持たない人間なのであるから、少しは惜しまれるうちに死んで、簡単な同情にもせよ、恋しい方に憐《あわ》れだと思われることを自分の恋の最後に報いられたことと見よう、しいて生きていて自己の悪名も立ち、なお自分をもあの方をも苦しめるような道を進んで行くよりは、無礼であるとお憎しみになる院も、死ねばすべてをお許しになるであろうから、やはり死が願わしい、そのほかの点で過去に院の御感情を害したことはなく、長く恩顧を得ていた以前の御愛情が死によって蘇《よみがえ》ってくることもあるであろうとこんなふうに思われることが多い哀れな衛門督であった。なぜこう短時日の間に自分をめちゃめちゃにしてしまったのであろうと煩悶《はんもん》して、苦しい涙を流しているのであるが、病苦が少し楽になったようであると、家族たちが病室を出て行った間に衛門督は女三《にょさん》の宮《みや》へ送る手紙を書いた。
[#ここから1字下げ]
もう私の命の旦夕《たんせき》に迫っておりますことはどこからとなくお耳にはいっているでしょうが、どんなふうかともお尋ねくださいませんことはもっともなことですが、私としては悲しゅうございます。
[#ここで字下げ終わり]
こんなことを書くのにも衛門督は手が慄《ふる》えてならぬために、書きたいことも書きさして先を急いだ。
[#ここから2字下げ]
今はとて燃えん煙も結ぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らん
[#ここから1字下げ]
哀れであるとだけでも言ってください。それに満足します心を、暗い闇《やみ》の世界へはいります道の光明にもいたしましょう。
[#ここで字下げ終わり]
と結んだのであった。
小侍従にもなお懲りずに督《かみ》は恋の苦痛を訴えて来た。
[#ここから1字下げ]
直接もう一度あなたに逢《あ》って言いたいことがある。
[#ここで字下げ終わり]
とも書いてあった。小侍従も童女時代から伯母《おば》の縁故で親しい交情があったから、だいそれた恋をする点では、迷惑な主人筋の変わり者であると面倒には思っていたものの、生きる望みのなくなっている様子を知っては悲しくて、泣きながら、
「このお返事だけはどうかなすってくださいまし。これが最後のことでございましょうから」
と宮へ申し上げた。
「私だってもういつ死ぬかわからないほど命に自信がなくなっているのだから、そうした気の毒な容体でいる人としてだけに同情もされるけれど、私はもう苦しめられることに懲りているのだから、返事などをしてかかりあいになるのは非常にいやに思われる」
こうお言いになって、宮は書こうとあそばさない。自重心がおありになるのではなくて、これは院のお心に御自身のあそばされた過失の影がおりおりさして、悩ましい御様子をお見せになることもあるのを、恐ろしく苦しいことと深く思っておいでになるからである。小侍従はそれでも硯《すずり》などを持って来て責めたてるので、しぶしぶお書きになった宮のお手紙を持って、宵闇《よいやみ》に紛れてそっと小侍従は衛門督《えもんのかみ》の所へ行った。
大臣は大和《やまと》の葛城《かつらぎ》山から呼んだ上手《じょうず》な評判のある修験者にこの晩は督《かみ》の加持《かじ》をさせようとしていた。祈祷《きとう》や読経《どきょう》の声も騒がしく病室へはいって来た。人が勧めるままに、世の中へ出ることをしない高僧などで、世間からもまたあまり知られていないような人も、遠い土地へ息子《
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