った。
 縁側に近い御簾《みす》の中に院のお席があって、そこにはただ式部卿《しきぶきょう》の宮が御同席され、右大臣の陪覧する座があっただけである。以下の高官たちは皆縁側に席をして、そこには形式を省いた饗応《きょうおう》の物が出されてあった。右大臣の四男と、左大将の三男、それに兵部卿《ひょうぶきょう》の宮の御幼年の王子お二人の四人立ちで万歳楽が舞われるのであるが、皆小さい姿でかわいかった。四人とも皆高い貴族の子供たちで風貌《ふうぼう》が凡庸でない。皆にいたわれながら小公子たちは登場した。また大将の典侍腹《てんじばら》の二男と、式部卿の宮の御長男でもとは兵衛督であって今は源中納言となっている人の子のこの二人が「皇※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《こうじょう》」、右大臣の三男が「陵王《りょうおう》」、大将の長男の「落蹲《らくそん》」のほかにも「太平楽」「喜春楽」などの舞曲も若い公達《きんだち》が演じた。日が暮れてしまうと御前の御簾は巻き上げられて、音楽にも舞にもおもしろみが加わってゆく。かわいい姿の御孫の公達は秘伝を惜しまずそれぞれの師匠が教えた芸に、よい遺伝からの才気の加味された舞をだれもだれもおもしろく見せるのを、皆かわいく院は思召《おぼしめ》した。老いた高官たちは皆落涙をしていた。式部卿の宮も御孫の芸にお鼻の色も変わるほど感動されたのであった。六条院が、
「年のゆくにしたがって酔い泣きをすることがますます烈《はげ》しくなってゆく。衛門督《えもんのかみ》のおかしそうに笑っておられるのが恥ずかしい。歳月はさかさまに進むものではないからね。あなたがたでも老いはのがれられないのですよ」
 と言ってその人の顔を御覧になる。だれよりもまじめに堅くなっていて、偽りでなく身体《からだ》の具合も悪く思われ、おもしろいことも目にとまらぬ気持ちになっている衛門督を、お名ざしになり、酔態に託してこう仰せられるのは戯れらしくはあったが、その人ははっと胸がとどろいて、めぐって来た杯は手に取ってもただ少ししか飲まないのを、院は見とがめになって、御座からたびたび侍者に酒を持たせておつかわしになり、おしいになるのを、困りながら辞退する取りなしなども、平凡な人とは見えず感じよく院はお思いになった。身心の苦痛に堪えられなくなって衛門督はまだ宴の終わらぬうちに辞して帰ったが、悪酔いからさめることのできないのは、院を目《ま》のあたり見て罪の自責に苦しんだために逆上したのであろうが、それほど臆病《おくびょう》な自分ではなかったはずであるがと悲しんだ。一時的な酒精の毒ではなくてそのまま衛門督は寝ついて重い容体になった。衛門督の父母がよそに置いてあるのが不安になり、自邸へつれもどすことにしたのを、夫人の宮の悲しがっておいでになるのがまた衛門督には苦しく思われた。何事もなかった間は、衛門督自身も、宮をお愛しする情熱のありなしすら忘れているほどの良人であったが、もうこの世での別れかもしれぬと予感される今日の心には、宮をお残しして行くことが悲しくて、未亡人の寂しい人におさせするのが堪えられない苦痛に思われ、またもったいなくも思われ歎《なげ》かれるのであった。宮の御母の御息所《みやすどころ》も非常に悲しんだ。
「世間の慣《なら》いでは親は親として、御夫婦というものはどんな時にもごいっしょにおいでになることになっています。あちらへ移っておしまいになって、御回復なさるまで別々においでになるのは、宮様のためにおかわいそうなことですから、せめてもうしばらくの間こちらで養生をなさいませ」
 この人が病床との隔てに几帳《きちょう》だけを置いて看護をしているのである。
「ごもっともです。私ごとき者と結婚をしてくださいました宮様のためには、せめて私が長生きをして相当な地位を得るように努力せねばならぬと心がけてはいたのですが、こんな病人になってしまいましては、私の愛がどれほどのものであったかを宮様にわかっていただけないで終わるかと思いますことで、もう命の助からぬような気のしますうちでも、死なれぬ気がするのです」
 などと泣き合っていて、迎えようとするのに、すぐに移っても来ないのを母の夫人は気づかわしがって、
「そんな場合に、どうして親の所へ来ようとあなたは思ってくれないのだろう。私が病気をする時には、おおぜいの子供の中でも特にあなたがそばにいてほしく、またいてくれれば頼もしくてうれしいのだのに、いつまでもなぜそちらにあなたはいる」
 こんなことを使いに言わせて来るのにももっともなところがあって、衛門督《えもんのかみ》は母へ同情をせずにはおられないのであった。
「私がいちばん初めに生まれたためなのでしょうが、大事にされていまして、こんなになってもまだ母はかわいがりまして、しばらくの間でも逢《あ》わずにいることを苦しがるのですから、もう頼み少ない病状になっている際に、母の逢いたがる心を満足させないのは未来の世までの罪になるだろうと思われますから、とにかく病床をあちらへ移します。もういよいよ危篤になったというしらせがありましたら、そっと大臣邸へおいでなさい。必ずもう一度お目にかかりましょう。ぼんやりとした性質なものですから、気もつかずにあなたを不愉快におさせしたような場合もあったであろうと思われますのが残念でなりません。こんなに短命で終わろうとは思いませんで、長い将来に誠意をくんでいただける日が必ずあるもののように思って安心していました」
 と、衛門督は宮に申して、泣く泣く父の家へ移って行った。宮はあとに思いこがれておいでになった。大臣家では病人の扱いに大騒ぎをして、祈祷《きとう》やその他に全力を尽くすのであった。病は最悪という容態でもない。ただ食慾《しょくよく》がひどく減退して、もうこちらへ来てからは果物《くだもの》をさえ取ろうとしなかった。教養の足りた優秀な高官と見られている人が、こんなふうに頼み少ない容体になっていることを世間は惜しんで、見舞いを申し入れに来ぬ人もない。宮中からも法皇の御所からもしばしばお見舞いの御使《みつか》いが来て、衛門督の病状を御心痛あそばされているのを見ても、両親は悲しくばかり思われた。六条院も非常に残念に思召《おぼしめ》して、たびたび懇切なお見舞いの手紙を大臣へ下された。左大将はまして仲のよい友人であったから、病床へもよく訪《たず》ねて来て、衛門督をいたましがっていた。
 法皇の御賀は二十五日になった。現在での花形の高官が重い病気をしてその一家一族の人たちが愁《うれ》いに沈んでいる時に決行されるのは寂しいことのように院はお思いになったが、月々に支障があって延びてきたことであったし、ぜひ今年じゅうにせねばならぬことでもあったから、やむをえぬことだったのである。院は姫宮の心情を哀れにお思いになっていた。かねての計画のように五十か寺での御|誦経《ずきょう》が最初にあって、法皇のおいであそばされる寺でも大日如来《だいにちにょらい》の御祈りが行なわれた。



底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
   1994(平成6)年6月15日39版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年2月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全13ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング