なり、帝《みかど》が即位をあそばされてから十八年になった。
「将来の天子になる子のないことで自分には人生が寂しい。せめて気楽な身の上になって自分の愛する人たちと始終出逢うこともできるようにして、私人として楽しい生活がしてみたい」
 以前からよくこう帝は仰せられたのであったが、重く御病気をあそばされた時ににわかに譲位を行なわせられた。世人は盛りの御代《みよ》をお捨てあそばされることを残念がって歎《なげ》いたが、東宮ももう大人《おとな》になっておいでになったから、お変わりになっても特別変わったこともなかった。ゆるぎない大御代《おおみよ》と見えた。太政大臣は関白職の辞表を出して自邸を出なかった。
「人生の頼みがたさから賢明な帝王さえ御位《みくらい》をお去りになるのであるから、老境に達した自分が挂冠《けいかん》するのに惜しい気持ちなどは少しもない」
 と言っていたに違いない。左大将が右大臣になって関白の仕事もした。御母君の女御《にょご》は新帝の御代を待たずに亡《な》くなっていたから、后《きさき》の位にお上《のぼ》されになっても、それはもう物の背面のことになって寂しく見えた。六条の女御のお生みした今上第一の皇子が東宮におなりになった。そうなるはずのことはだれも知っていたが、目前にそれが現われてみればまた一家の幸福さに驚きもされるのであった。右大将が大納言を兼ねて順序のままに左大将に移り、この人も幸福に見えた。六条院は御譲位になった冷泉《れいぜい》院に御|後嗣《こうし》のないのを御心の中では遺憾に思召《おぼしめ》された。実は新東宮だって六条院の御血統なのだが、冷泉院の御在位中には御|煩悶《はんもん》もなくて過ごされたほど、例の密通の秘密は隠しおおされたが、そのかわりにこの御系統が末まで続かぬように運命づけられておしまいになったのを六条院は寂しくお思いになったが、御口外あそばすことでもないのでただお心で味けなくお感じになるだけであった。東宮の御母女御は皇子たちが多くお生まれになって帝《みかど》の御|寵《ちょう》はますます深くなるばかりであった。またも王氏の人が后にお立ちになることになっていることで、今度で三代にもなっていたから何かと飽き足らぬらしい世論があるのをお知りになった時、冷泉院の中宮《ちゅうぐう》は以前もこうした場合に六条院の強い御支持があって、自分の后の位は定《きま》ったのであると過去を回想あそばしてますます院の恩をお感じになった。
 冷泉院の帝は御期待あそばされたとおりに、御窮屈なお思いもなしに御幸《みゆき》などもおできになることになって、あちらこちらと御遊幸あそばされて、今日の御境遇ほどお楽しいものはないようにお見受けされるのであった。帝は六条院においでになる御妹の姫宮に深い関心をお持ちになったし、世間がその方に払う尊敬も大きいのであるが、なお紫夫人以上の夫人として六条院の御寵を受けておいでになるのではなかった。年月のたつにしたがって女王と宮の御中にこまやかな友情が生じて、六条院の中は理想的な穏やかな空気に満たされているが、紫夫人は、
「もう私はこうした出入りの多い住居《すまい》から退きまして、静かな信仰生活がしたいと思います。人生とはこんなものということも経験してしまったような年齢《とし》にもなっているのですもの、もう尼になることを許してくださいませんか」
 と、時々まじめに院へお話しするのであるが、
「もってのほかですよ。そんな恨めしいことをあなたは思うのですか。それは私自身が実行したいことなのだが、あなたがあとに残って寂しく思ったり、私といっしょにいる時と違った世間の態度を悲しく感じたりすることになってはという気がかりがあるために現状のままでいるだけなのですよ。それでもいつか私の実行の日が来るでしょう、あなたはそのあとのことになさい」
 などとばかり院はお言いになって、夫人の志を妨げておいでになった。女御は今も女王を真実の母として敬愛していて、明石夫人は隠れた女御の後見をするだけの人になって謙遜《けんそん》さを失わないでいることは、かえって将来のために頼もしく思われた。尼君もうれし泣きの涙を流す日が多くて、目もふきただれて幸福な老婆の見本になっていた。
 住吉《すみよし》の神への願果たしを思い立って参詣《さんけい》する女御は、以前に入道から送って来てあった箱をあけて、神へ約した条件を調べてみたが、それにはかなり大がかりなことを多く書き立ててあった。年々の春秋の神楽《かぐら》とともに必ず長久隆運の祈りをすることなどは、今日の女御の境遇になっていなければ実行のできぬことであった。ただ走り書きにした文章にも入道の学問と素養が見え、仏も神も聞き入れるであろうことが明らかに知られた。どうしてそんな世捨て人の心にこんな望みの楼閣が建
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