苦労のない立場を得られることだけはできると私も見ておけます。そのほかの人たちは成り行きのままで、私といっしょに出家をしてしまってももういいほどの年齢《とし》になっているとこのごろでは思われます。院ももう長くはおいでにならないでしょう。以前よりいっそうお身体《からだ》が弱くおなりになって、心細い御様子でいらっしゃるとのことですから、今になって悪い名などをお耳に入れて御心配をかけてはいけませんよ。この世は何でもありませんが、来世のお妨げになることをしてはあなたの罪も大きくなりますよ」
 そのことと露骨にお言いにならないのであるが、しみじみとお説きになるために、宮は涙ばかりがこぼれて、知らず知らずめいり込んでおしまいになったのを御覧になる院も、お泣きになって、
「他の人がこうしたことを言うのを、聞く必要もない老人《としより》の理窟《りくつ》だと思った私だが、いつのまにかそれを言うほうの人に私がなっている。よけいなことを言う老人だとお思いになっていっそういやになるでしょう」
 ともお言いになって、硯《すずり》を引き寄せて御自身で墨をおすりになり、紙をお選《よ》りになりなどして、お返事を書かせようとされるのであるが、宮は手も慄《ふる》えてお書きになれない。あの濃厚な言葉の盛られてあった衛門督《えもんのかみ》の手紙の返事はこんなに渋らずに書かれたであろうとお思いになると、また反感が起こるのでもおありになったが、それでも院は言葉などを口授《くじゅ》してお書かせになった。
「お伺いになることはこんなことで今月もだめでしたね。それに新婚者の女二《にょに》の宮《みや》が派手《はで》な御賀をおささげになった時に、老人の妻であるあなたが競争的に出て行くのは遠慮すべきだと思いましたよ。十一月はあなたのお母様の忌月でしょう。十二月はあまりに押しつまってよろしくないし、あなたの身体《からだ》も見苦しくなるだろうから、久しぶりにお姿を御覧に入れるのはいかがかと思いますが、しかしそうそう延ばしてよいことでありませんからね、あまり物思いをしないようにして、朗らかな心になって、痩《や》せたお顔のなおるようにまずなさい」
 などとお言いになって、さすがにかわいくは思召すのであった。
 衛門督をどんな催し事にも必要な人物としてお招きになって御相談相手に今まではあそばす院でおありになったが、今度の法皇の賀に限って何の仰せもない。人が不審がるであろうとはお思いになるのであるが、その人が来てはずかしめられた老人である自分の見られることも不快であるし、自分が彼を見ては平静で心がありえなくなるかもしれぬと院はお思いになって、もう幾月も参殿しない人を、なぜかとお尋ねになることもないのである。ただの人たちは衛門督が病気続きであったし、六条院にもまた音楽その他のお催しの全くない年であるからと解釈していたが、左大将だけは何か理由のあることに違いない、多感多情な男であるから、自分が推測していたあの恋で自制の力を失うようなことがあったのではないかとは見ていても、まだこれほど不祥なことが暴露してしまったとは想像しなかった。
 十二月になった。十幾日と法皇の御賀の日が定められて六条院の中は用意に忙しくなった。二条の院の夫人はまだそのまま帰らずにいたが、御賀の試楽があるのに興味を覚えてもどってきた。女御《にょご》も実家にいた。今度のお産でお生まれになったのもまた男宮であった。次々に皆かわいい宮様を夫人はお世話することに生きがいを覚えていた。試楽の日は右大臣夫人も六条院へ来た。左大将は東北の御殿でそれ以前にすでに毎日監督する舞曲の練習をさせていたから、花散里《はなちるさと》夫人は試楽の見物には出て来なかった。衛門督《えもんのかみ》をこの試楽の日に除外するのは惜しく物足らぬことであると院はお思いになったし、それ以上にまた人の不審を引くことをお恐れにもなって、来るようにと使いをお向けになったが、病の重いことを申して督は出て来ようとしなかった。病気といっても何という名のある病をしているのでもないわけであるが、やましく思う点があるのであろうと、心苦しく思召して、特使をさえもおやりになって招こうとあそばされた。父の大臣も、
「なぜ御辞退をしたかね。何か含むことでもあるように院がお思いになるだろうに。大病というのではないのだから、無理をしても参ったほうがよい」
 と勧めていたところへ再度のお使いが来たのであったから、つらい気持ちをいだきながら参った。それはまだ他の高官などの集まって来ない時分であった。これまでのようにお座敷の御簾《みす》の中へ衛門督をお入れになって、院御自身はまた一つの御簾を隔てた奥のお居間においでになった。噂《うわさ》のとおりに非常に痩せて顔色が悪かった。平生もはなやかな派手《はで》な美しさ
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