てられたのであろうと、子孫への愛の深さが思われもし、神や仏に済まぬ気もされた。並みの人ではなくてしばらく自分の祖父になってこの世へ姿を現わしただけの、功徳を積んだ昔の聖僧ではなかったかなどと思われ、女御に明石《あかし》の入道を畏敬《いけい》する心が起こった。今度はまだ女御の行なうことにはせずに、六条院の参詣におつれになる形式で京を立ったのであった。
 須磨《すま》明石時代に神へお約しになったことは次々に果たされたのであるが、その以後もまた長く幸運が続き、一門子孫の繁栄を御覧になることによっても神の冥助《めいじょ》は忘られずに六条院は紫の女王《にょおう》も伴って御参詣あそばされるのであって、はなやかな一行である。簡素を旨として国の煩いになることはお避けになったのであるが、この御身分であってはある所までは必ず備えられねばならぬ旅の形式があって、自然に大きなことにもなった。公卿《こうけい》も二人の大臣以外は全部|供奉《ぐぶ》した。神前の舞い人は各|衛府《えふ》の次将たちの中の容貌《ようぼう》のよいのを、さらに背丈《せたけ》をそろえてとられたのであった。落選して歎《なげ》く風流公子もあった。奏楽者も石清水《いわしみず》や賀茂《かも》の臨時祭に使われる専門家がより整えられたのであるが、ほかから二人加えられたのは近衛府《このえふ》の中で音楽の上手《じょうず》として有名になっている人であった。また神楽のほうを受け持つ人も多数に行った。宮中、院、東宮の殿上役人が皆御命令によって供奉《ぐぶ》の中にいるのも無数にあった。華奢《かしゃ》を尽くした高官たちの馬、鞍《くら》、馬添い侍、随身、小侍の服装までもきらびやかな行列であった。院の御車《みくるま》には紫夫人と女御をいっしょに乗せておいでになって、次の車には明石夫人とその母の尼とが目だたぬふうに乗っていた。それには古い知り合いの女御の乳母《めのと》が陪乗したのである。女房たちの車は夫人付きの者のが五台、女御のが五台、明石夫人に属したのが三台で、それぞれに違った派手《はで》な味のある飾りと服装が人目に立った。明石の尼君がいっしょに来たのは、
「今度の参詣に尼君を優遇して同伴しよう。老人の心に満足ができるほどにして」
 と院がお言い出しになったのであって、はじめ明石夫人は、
「今度は院と女王様が主になっての御参詣なんですから、あなたなどが混じ
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