れを静かな気分でながめていられる麗人が直ちに想像され、源氏は恋しかった。逢いたい心のおさえられないままに、
「こちらへ伺いましたついでにお訪《たず》ねいたさないことは、志のないもののように、誤解を受けましょうから、あちらへも参りましょう」
 と源氏は言って、縁側伝いに行った。もう暗くなったころであったが、鈍《にび》色の縁の御簾《みす》に黒い几帳《きちょう》の添えて立てられてある透影《すきかげ》は身にしむものに思われた。薫物《たきもの》の香が風について吹き通う艶《えん》なお住居《すまい》である。外は失礼だと思って、女房たちの計らいで南の端の座敷の席が設けられた。女房の宣旨《せんじ》が応接に出て取り次ぐ言葉を待っていた。
「今になりまして、お居間の御簾の前などにお席をいただくことかと私はちょっと戸惑いがされます。どんなに長い年月にわたって私は志を申し続けてきたことでしょう。その労に酬《むく》いられて、お居間へ伺うくらいのことは許されていいかと信じてきましたが」
 と言って、源氏は不満足な顔をしていた。
「昔というものは皆夢でございまして、それがさめたのちのはかない世かと、それもまだよく決めて思われません境地にただ今はおります私ですから、あなた様の労などは静かに考えさせていただいたのちに定《き》めなければと存じます」
 女王の言葉の伝えられたのはこれだった。だからこの世は定めがたい、頼みにしがたいのだと、こんな言葉の端からも源氏は悲しまれた。

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「人知れず神の許しを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな
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 ただ今はもう神に託しておのがれになることもできないはずです。一方で私が不幸な目にあっていました時以来の苦しみの記録の片端でもお聞きくださいませんか」
 源氏は女王と直接に会見することをこう言って強要するのである。そうした様子なども昔の源氏に比べて、より優美なところが多く添ったように思われた。その時代に比べると年はずっと行ってしまった源氏ではあるが、位の高さにはつりあわぬ若々しさは保存されていた。

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なべて世の哀ればかりを問ふからに誓ひしことを神やいさめん
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 と斎院のお歌が伝えられる。
「そんなことをおとがめになるのですか。その時代の罪は皆|科戸《しなど》の風に追ってもらったはずです」
 源氏の愛嬌《あいきょう》はこぼれるようであった。
「この御禊《みそぎ》を神は(恋せじとみたらし川にせし御禊《みそぎ》神は受けずもなりにけるかな)お受けになりませんそうですね」
 宣旨は軽く戯談《じょうだん》にしては言っているが、心の中では非常に気の毒だと源氏に同情していた。羞恥《しゅうち》深い女王は次第に奥へ身を引いておしまいになって、もう宣旨にも言葉をお与えにならない。
「あまりに哀れに自分が見えすぎますから」
 と深い歎息《たんそく》をしながら源氏は立ち上がった。
「年が行ってしまうと恥ずかしい目にあうものです。こんな恋の憔悴《しょうすい》者にせめて話を聞いてやろうという寛大な気持ちをお見せになりましたか。そうじゃない」
 こんな言葉を女房に残して源氏の帰ったあとで、女房らはどこの女房も言うように源氏をたたえた。空の色も身にしむ夜で、木の葉の鳴る音にも昔が思われて、女房らは古いころからの源氏との交渉のあったある場面場面のおもしろかったこと、身に沁《し》んだことも心に浮かんでくると言って斎院にお話し申していた。
 不満足な気持ちで帰って行った源氏はましてその夜が眠れなかった。早く格子《こうし》を上げさせて源氏は庭の朝霧をながめていた。枯れた花の中に朝顔が左右の草にまつわりながらあるかないかに咲いて、しかも香さえも放つ花を折らせた源氏は、前斎院へそれを贈るのであった。
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あまりに他人らしくお扱いになりましたから、きまりも悪くなって帰りましたが、哀れな私の後ろ姿をどうお笑いになったことかと口惜《くちお》しい気もしますが、しかし、

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見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん

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どんなに長い年月の間あなたをお思いしているかということだけは知っていてくださるはずだと思いまして、私は歎《なげ》きながらも希望を持っております。
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 という手紙を源氏は書いたのである。真正面から恋ばかりを言われているのでもない中年の源氏のおとなしい手紙に対して、返事をせぬことも感情の乏しい女と思われることであろうと女王もお思いになり、女房たちもそう思って硯《すずり》の用意などしたのでお書きになった。

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秋はてて霧の籬《まがき》にむすぼほれあるかなきか
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