思われないことで限りもなく悲しかった。
「無力な私も陛下の御後見にできますだけの努力はしておりますが、太政大臣の薨去されましたことで大きな打撃を受けましたおりから、御重患におなりあそばしたので、頭はただ混乱いたすばかりで、私も長く生きていられない気がいたします」
こんなことを源氏が言っているうちに、あかりが消えていくように女院は崩御《ほうぎょ》あそばされた。
源氏は力を落として深い悲しみに浸っていた。尊貴な方でもすぐれた御人格の宮は、民衆のためにも大きな愛を持っておいでになった。権勢があるために知らず知らず一部分の人をしいたげることもできてくるものであるが、女院にはそうしたお過《あやま》ちもなかった。女院をお喜ばせしようと当局者の考えることもそれだけ国民の負担がふえることであるとお認めになることはお受けにならなかった。宗教のほうのことも僧の言葉をお聞きになるだけで、派手《はで》な人目を驚かすような仏事、法要などの行なわれた話は、昔の模範的な聖代にもあることであったが、女院はそれを避けておいでになった。御両親の御遺産、官から年々定まって支給せられる物の中から、実質的な慈善と僧家への寄付をあそばされた。であったから僧の片端にすぎないほどの者までも御恩恵に浴していたことを思って崩御を悲しんだ。世の中の人は皆女院をお惜しみして泣いた。殿上の人も皆|真黒《まっくろ》な喪服姿になって寂しい春であった。
源氏は二条の院の庭の桜を見ても、故院の花の宴の日のことが思われ、当時の中宮《ちゅうぐう》が思われた。「今年ばかりは」(墨染めに咲け)と口ずさまれるのであった。人が不審を起こすであろうことをはばかって、念誦《ねんず》堂に引きこもって終日源氏は泣いていた。はなやかに春の夕日がさして、はるかな山の頂《いただき》の立ち木の姿もあざやかに見える下を、薄く流れて行く雲が鈍《にび》色であった。何一つも源氏の心を惹《ひ》くものもないころであったが、これだけは身に沁《し》んでながめられた。
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入り日さす峯にたなびく薄雲は物思ふ袖《そで》に色やまがへる
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これはだれも知らぬ源氏の歌である。御葬儀に付帯したことの皆終わったころになってかえって帝はお心細く思召《おぼしめ》した。女院の御母后の時代から祈りの僧としてお仕えしていて、女院も非常に御尊敬あそばされ、御信頼あそばされた人で、朝廷からも重い待遇を受けて、大きな御祈願がこの人の手で多く行なわれたこともある僧都《そうず》があった。年は七十くらいである。もう最後の行をするといって山にこもっていたが僧都は女院の崩御によって京へ出て来た。宮中から御召しがあって、しばしば御所へ出仕していたが、近ごろはまた以前のように君側《くんそく》のお勤めをするようにと源氏から勧められて、
「もう夜居《よい》などはこの健康でお勤めする自信はありませんが、もったいない仰せでもございますし、お崩《かく》れになりました女院様への御奉公になることと思いますから」
と言いながら夜居の僧として帝に侍していた。静かな夜明けにだれもおそばに人がいず、いた人は皆退出してしまった時であった。僧都は昔風に咳《せき》払いをしながら、世の中のお話を申し上げていたが、その続きに、
「まことに申し上げにくいことでございまして、かえってそのことが罪を作りますことになるかもしれませんから、躊躇《ちゅうちょ》はいたされますが、陛下がご存じにならないでは相当な大きな罪をお得になることでございますから、天の目の恐ろしさを思いまして、私は苦しみながら亡《な》くなりますれば、やはり陛下のおためにはならないばかりでなく、仏様からも卑怯《ひきょう》者としてお憎しみを受けると思いまして」
こんなことを言い出した。しかもすぐにはあとを言わずにいるのである。帝は何のことであろう、今日もまだ意志の通らぬことがあって、それの解決を見た上でなければ清い往生のできぬような不安があるのかもしれない。僧というものは俗を離れた世界に住みながら嫉妬《しっと》排擠《はいせい》が多くてうるさいものだそうであるからと思召して、
「私は子供の時から続いてあなたを最も親しい者として信用しているのであるが、あなたのほうには私に言えないことを持っているような隔てがあったのかと思うと少し恨めしい」
と仰せられた。
「もったいない。私は仏様がお禁じになりました真言秘密の法も陛下には御伝授申し上げました。私個人のことで申し上げにくいことが何ございましょう。この話は過去未来に広く関聯《かんれん》したことでございましてお崩《かく》れになりました院、女院様、現在国務をお預かりになる内大臣のおためにもかえって悪い影響をお与えすることになるかもしれません。老いた僧の身の私
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