ばかりである。夫人の心も非常に悲しかった。これまでもすでに同じ家には住まず別居の形になっていたのであるから、明石が上京したあとに自分だけが残る必要も認めてはいないものの、地方にいる間だけの仮の夫婦の中でも月日が重なって馴染《なじみ》の深くなった人たちは別れがたいものに違いないのであるから、まして夫人にとっては頑固《がんこ》な我意の強い良人《おっと》ではあったが、明石に作った家で終わる命を予想して、信頼して来た妻なのであるからにわかに別れて京へ行ってしまうことは心細かった。光明を見失った人になって田舎《いなか》の生活をしていた若い女房などは、蘇生《そせい》のできたほどにうれしいのであるが、美しい明石の浦の風景に接する日のまたないであろうことを思うことで心のめいることもあった。これは秋のことであったからことに物事が身に沁《し》んで思われた。出立の日の夜明けに、涼しい秋風が吹いていて、虫の声もする時、明石の君は海のほうをながめていた。入道は後夜《ごや》に起きたままでいて、鼻をすすりながら仏前の勤めをしていた。門出の日は縁起を祝って、不吉なことはだれもいっさい避けようとしているが、父も娘も忍ぶことができずに泣いていた。小さい姫君は非常に美しくて、夜光の珠《たま》と思われる麗質の備わっているのを、これまでどれほど入道が愛したかしれない。祖父の愛によく馴染んでいる姫君を入道は見て、
「僧形《そうぎょう》の私が姫君のそばにいることは遠慮すべきだとこれまでも思いながら、片時だってお顔を見ねばいられなかった私は、これから先どうするつもりだろう」
と泣く。
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「行くさきをはるかに祈る別れ路《ぢ》にたへぬは老いの涙なりけり
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不謹慎だ私は」
と言って、落ちてくる涙を拭《ぬぐ》い隠そうとした。尼君が、京時代の左近中将の良人《おっと》に、
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「もろともに都は出《い》できこのたびや一人野中の道に惑はん」
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と言って泣くのも同情されることであった。信頼をし合って過ぎた年月を思うと、どうなるかわからぬ娘の愛人の心を頼みにして、見捨てた京へ帰ることが尼君をはかなくさせるのであった。明石が、
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「いきてまた逢ひ見んことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まん
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