ほうのは古典的な価値の定まった物を絵にしたのが多く、弘徽殿のは新作として近ごろの世間に評判のよい物を描かせたのが多かったから、見た目のにぎやかで派手《はで》なのはこちらにあった。典侍《ないしのすけ》や内侍《ないし》や命婦《みょうぶ》も絵の価値を論じることに一所懸命になっていた。女院も宮中においでになるころであったから、女官たちの論議する者を二つにして説をたたかわせて御覧になった。左右に分けられたのである。梅壺方は左で、平典侍《へいてんじ》、侍従の内侍、少将の命婦などで、右方は大弐《だいに》の典侍、中将の命婦、兵衛《ひょうえ》の命婦などであった。皆世間から有識者として認められている女性である。思い思いのことを主張する弁論を女院は興味深く思召《おぼしめ》して、まず日本最初の小説である竹取の翁《おきな》と空穂《うつぼ》の俊蔭《としかげ》の巻を左右にして論評をお聞きになった。
「竹取の老人と同じように古くなった小説ではあっても、思い上がった主人公の赫耶《かぐや》姫の性格に人間の理想の最高のものが暗示されていてよいのです。卑近なことばかりがおもしろい人にはわからないでしょうが」
と左は言う。右は、
「赫耶姫の上った天上の世界というものは空想の所産にすぎません。この世の生活の写してある所はあまりに非貴族的で美しいものではありません。宮廷の描写などは少しもないではありませんか。赫耶姫は竹取の翁の一つの家を照らすだけの光しかなかったようですね。安部《あべ》の多《おおし》が大金で買った毛皮がめらめらと焼けたと書いてあったり、あれだけ蓬莱《ほうらい》の島を想像して言える倉持《くらもち》の皇子《みこ》が贋物《にせもの》を持って来てごまかそうとしたりするところがとてもいやです」
この竹取の絵は巨勢《こせ》の相覧《おうみ》の筆で、詞《ことば》書きは貫之《つらゆき》がしている。紙屋紙《かんやがみ》に唐錦《からにしき》の縁が付けられてあって、赤紫の表紙、紫檀《したん》の軸で穏健な体裁である。
「俊蔭は暴風と波に弄《もてあそ》ばれて異境を漂泊しても芸術を求める心が強くて、しまいには外国にも日本にもない音楽者になったという筋が竹取物語よりずっとすぐれております。それに絵も日本と外国との対照がおもしろく扱われている点ですぐれております」
と右方は主張するのであった。これは式紙地《しきしじ》の紙に書かれ、青い表紙と黄玉《おうぎょく》の軸が付けられてあった。絵は常則《つねのり》、字は道風であったから派手《はで》な気分に満ちている。左はその点が不足であった。次は伊勢《いせ》物語と正三位《しょうさんみ》が合わされた。この論争も一通りでは済まない。今度も右は見た目がおもしろくて刺戟《しげき》的で宮中の模様も描かれてあるし、現代に縁の多い場所や人が写されてある点でよさそうには見えた。平典侍が言った。
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「伊勢の海の深き心をたどらずて古《ふ》りにし跡と波や消つべき
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ただの恋愛談を技巧だけで綴《つづ》ってあるような小説に業平朝臣《なりひらあそん》を負けさせてなるものですか」
右の典侍が言う。
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雲の上に思ひのぼれる心には千尋《ちひろ》の底もはるかにぞ見る
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女院が左の肩をお持ちになるお言葉を下された。
「兵衛王《ひょうえおう》の精神はりっぱだけれど在五中将以上のものではない。
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見るめこそうらぶれぬらめ年経にし伊勢をの海人《あま》の名をや沈めん」
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婦人たちの言論は長くかかって、一回分の勝負が容易につかないで時間がたち、若い女房たちが興味をそれに集めている陛下と梅壺《うめつぼ》の女御の御絵はいつ席上に現われるか予想ができないのであった。源氏も参内して、双方から述べられる支持と批難の言葉をおもしろく聞いた。
「これは御前で最後の勝負を決めましょう」
と源氏が言って、絵合わせはいっそう広く判者を求めることになった。こんなこともかねて思われたことであったから、須磨、明石の二巻を左の絵の中へ源氏は混ぜておいたのである。中納言も劣らず絵合わせの日に傑作を出そうとすることに没頭していた。世の中はもうよい絵を製作することと、捜し出すことのほかに仕事がないように見えた。
「今になって新しく作ることは意味のないことだ。持っている絵の中で優劣を決めなければ」
と源氏は言っているが、中納言は人にも知らせず自邸の中で新画を多く作らせていた。院もこの勝負のことをお聞きになって、梅壺へ多くの絵を御寄贈あそばされた。宮中で一年じゅうにある儀式の中のおもしろいのを昔の名家が描いて、延喜《えんぎ》の帝が御自身で説明をお添えになった古い巻き物のほかに、御自身の御代《みよ》の宮廷にあったはなやかな儀式などをお描かせになった絵巻には、斎宮《さいぐう》発足の日の大極殿《だいごくでん》の別れの御櫛《みぐし》の式は、御心《みこころ》に沁《し》んで思召されたことなのであったから、特に構図なども公茂画伯《きんもちがはく》に詳しくお指図《さしず》をあそばして製作された非常にりっぱな絵もあった。沈《じん》の木の透かし彫りの箱に入れて、同じ木で作った上飾りを付けた新味のある御贈り物であった。御|挨拶《あいさつ》はただお言葉だけで院の御所への勤務もする左近の中将がお使いをしたのである。大極殿の御輿《みこし》の寄せてある神々しい所に御歌があった。
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身こそかくしめの外《ほか》なれそのかみの心のうちを忘れしもせず
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と言うのである。返事を差し上げないこともおそれおおいことであると思われて、斎宮の女御は苦しく思いながら、昔のその日の儀式に用いられた簪《かんざし》の端を少し折って、それに書いた。
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しめのうちは昔にあらぬここちして神代のことも今ぞ恋しき
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藍《あい》色の唐紙に包んでお上げしたのであった。院はこれを限りもなく身に沁《し》んで御覧になった。このことで御位《みくらい》も取り返したく思召した。源氏をも恨めしく思召されたに違いない。かつて源氏に不合理な厳罰をお加えになった報いをお受けになったのかもしれない。院のお絵は太后の手を経て弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》のほうへも多く来ているはずである。尚侍《ないしのかみ》も絵の趣味を多く持っている人であったから、姪《めい》の女御のためにいろいろと名画を集めていた。
定められた絵合わせの日になると、それはいくぶんにわかなことではあったが、おもしろく意匠をした風流な包みになって、左右の絵が会場へ持ち出された。女官たちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは清涼殿《せいりょうでん》のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の紫檀《したん》の箱に蘇枋《すおう》の木の飾り台、敷き物は紫地の唐錦《からにしき》、帛紗《ふくさ》は赤紫の唐錦である。六人の侍童の姿は朱色の服の上に桜襲《さくらがさね》の汗袗《かざみ》、袙《あこめ》は紅の裏に藤襲《ふじがさね》の厚織物で、からだのとりなしがきわめて優美である。右は沈の木の箱に浅香《せんこう》の下机《したづくえ》、帛紗は青地の高麗錦《こうらいにしき》、机の脚《あし》の組み紐《ひも》の飾りがはなやかであった。侍童らは青色に柳の色の汗袗《かざみ》、山吹襲《やまぶきかさね》の袙《あこめ》を着ていた。双方の侍童がこの絵の箱を御前に据《す》えたのである。源氏の内大臣と権中納言とが御前へ出た。太宰帥《だざいのそつ》の宮も召されて出ておいでになった。この方は芸術に趣味をお持ちになる方であるが、ことに絵画がお好きであったから、初めに源氏からこのお話もしてあった。公式のお召しではなくて、殿上の間に来ておいでになったのに仰せが下ったのである。この方に今日の審判役を下命された。評判どおりに入念に描《か》かれた絵巻が多かった。優劣をにわかにお決めになるのは困難なようである。例の四季を描いた絵も、大家がよい題材を選んで筆力も雄健に描き流した物は価値が高いように見えるが、今度は皆紙絵であるから、山水画の豊かに描かれた大作などとは違って、凡庸な者に思われている今の若い絵師も昔の名画に近い物を作ることができ、それにはまた現代人の心を惹《ひ》くものも多量に含まれていて、左右はそうした絵の優劣を論じ合っているが、今日の論争は双方ともまじめであったからおもしろかった。襖子《からかみ》をあけて朝餉《あさがれい》の間《ま》に女院は出ておいでになった。絵の鑑識に必ず自信がおありになるのであろうと思って、源氏はそれさえありがたく思われた。判者が断定のしきれないような時に、お伺いを女院へするのに対して、短いお言葉の下されるのも感じのよいことであった。左右の勝ちがまだ決まらずに夜が来た。最後の番に左から須磨の巻が出てきたことによって中納言の胸は騒ぎ出した。右もことに最後によい絵巻が用意されていたのであるが、源氏のような天才が清澄な心境に達した時に写生した風景画は何者の追随をも許さない。判者の親王をはじめとしてだれも皆涙を流して見た。その時代に同情しながら想像した須磨よりも、絵によって教えられる浦住まいはもっと悲しいものであった。作者の感情が豊かに現われていて、現在をもその時代に引きもどす力があった。須磨からする海のながめ、寂しい住居《すまい》、崎々浦々が皆あざやかに描かれてあった。草書で仮名混じりの文体の日記がその所々には混ぜられてある。身にしむ歌もあった。だれも他の絵のことは忘れて恍惚《こうこつ》となってしまった。圧巻はこれであると決まって左が勝ちになった。
明け方近くなって古い回想から湿った心持ちになった源氏は杯を取りながら帥《そつ》の宮に語った。
「私は子供の時代から学問を熱心にしていましたが、詩文の方面に進む傾向があると御覧になったのですか、院がこうおっしゃいました、文学というものは世間から重んぜられるせいか、そのほうのことを専門的にまでやる人の長寿と幸福を二つともそろって得ている人は少ない。不足のない身分は持っているのであるから、あながちに文学で名誉を得る必要はない。その心得でやらねばならないって。以来私に本格的な学問をいろいろとおさせになりましたが、できが悪い課目もなく、またすぐれた深い研究のできたこともありませんでした。絵を描くことだけは、それは大きいことではありませんが、満足のできるほど精神を集中させて描いて見たいという希望がおりおり起こったものですが、思いがけなく放浪者になりました時に、はじめて大自然の美しさにも接する機会を得まして、描くべき物は十分に与えられたのですが、技巧がまずくて、思いどおりの物を紙上に表現することはできませんでした。そんなものですからこれだけをお目にかけることは恥ずかしくていたされませんから、今度のような機会に持ち出しただけなのですが、私の行為が突飛《とっぴ》なように評されないかと心配しております」
「何の芸でも頭がなくては習えませんが、それでもどの芸にも皆師匠があって、導く道ができているものですから、深さ浅さは別問題として、師匠の真似《まね》をして一通りにやるだけのことはだれにもまずできるでしょう。ただ字を書くことと囲碁だけは芸を熱心に習ったとも思われない者からもひょっくりりっぱな書を書く者、碁の名人が出ているものの、やはり貴族の子の中からどんな芸も出抜けてできる人が出るように思われます。院が御自身の親王、内親王たちに皆何かの芸はお仕込みになったわけですが、その中でもあなたへは特別に御熱心に御教授あそばしましたし、熱心にもお習いになったのですから、詩文のほうはむろんごりっぱだし、そのほかでは琴《きん》をお弾《ひ》きになることが第一の芸で、次は横笛、琵琶《びわ》、十三|絃《げん》という順によくおできになる芸が
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