ろう」
と言って、末摘花を批難した。侍従も大弐の甥《おい》のような男の愛人になっていて、京へ残ることもできない立場から、その意志でもなく女王のもとを去って九州行きをすることになっていた。
「京へお置きして参ることは気がかりでなりませんからいらっしゃいませ」
と誘うのであるが、女王の心はなお忘れられた形になっている源氏を頼みにしていた。どんなに時がたっても自分の思い出される機会のないわけはない、あれほど堅い誓いを自分にしてくれた人の心は変わっていないはずであるが、自分の運の悪いために捨てられたとも人からは見られるようなことになっているのであろう、風の便《たよ》りででも自分の哀れな生活が源氏の耳にはいればきっと救ってくれるに違いないと、これはずっと以前から女王の信じているところであって、邸《やしき》も家も昔に倍した荒廃のしかたではあるが、部屋の中の道具類をそこばくの金に変えていくようなことは、源氏の来た時に不都合であるからと忍耐を続けているのである。気をめいらせて泣いている時のほうが多い末摘花の顔は、一つの木の実だけを大事に顔に当てて持っている仙人《せんにん》とも言ってよい奇怪な物に見えて、異性の興味を惹《ひ》く価値などはない。気の毒であるからくわしい描写はしないことにする。
冬にはいればはいるほど頼りなさはひどくなって、悲しく物思いばかりして暮らす女王だった。源氏のほうでは故院のための盛んな八講を催して、世間がそれに湧《わ》き立っていた。僧などは平凡な者を呼ばずに学問と徳行のすぐれたのを選んで招じたその物事に、女王の兄の禅師も出た帰りに妹君を訪《たず》ねて来た。
「源大納言さんの八講に行ったのです。たいへんな準備でね、この世の浄土のように法要の場所はできていましたよ。音楽も舞楽もたいしたものでしたよ。あの方はきっと仏様の化身《けしん》だろう、五濁《ごじょく》の世にどうして生まれておいでになったろう」
こんな話をして禅師はすぐに帰った。普通の兄弟《きょうだい》のようには話し合わない二人であるから、生活苦も末摘花《すえつむはな》は訴えることができないのである。それにしてもこの不幸なみじめな女を捨てて置くというのは、情けない仏様であると末摘花は恨めしかった。こんな気のした時から、自分はもう顧みられる望みがないのだろうとようやく思うようになった。
そんなころであるが大弐の夫人が突然訪ねて来た。平生はそれほど親密にはしていないのであるが、つれて行きたい心から、作った女王の衣裳《いしょう》なども持って、よい車に乗って来た得意な顔の夫人がにわかに常陸の宮邸へ現われたのである。門をあけさせている時から目にはいってくるものは荒廃そのもののような寂しい庭であった。門の扉も安定がなくなっていて倒れたのを、供の者が立て直したりする騒ぎである。この草の中にもどこかに三つだけの道はついているはずであると皆が捜した。そしてやっと建物の南向きの縁の所へ車を着けた。
きまりの悪い迷惑なことと思いながら女王は侍従を応接に出した。煤《すす》けた几帳《きちょう》を押し出しながら侍従は客と対したのである。容貌《ようぼう》は以前に比べてよほど衰えていた。しかしやつれながらもきれいで、女王の顔に代えたい気がする。
「もう出発しなければならないのですが、こちらのことが気がかりなものですから、今日は侍従の迎えがてらお訪《たず》ねしました。私の好意をくんでくださらないで、御自分がちょっとでも来てくださることを御承知にならないことはやむをえませんが、せめて侍従だけをよこしていただくお許しをいただきに来たのです。まあお気の毒なふうで暮らしていらっしゃるのですね」
こう言ったのであるから、続いて泣いてみせねばならないのであるが、実は大弐夫人は九州の長官夫人になって出発して行く希望に燃えているのである。
「宮様がおいでになったころ、私の結婚相手が悪いからって、交際するのをおきらいになったものですから、私らもついかけ離れた冷淡なふうになっていましたものの、それからもこちら様は源氏の大将さんなどと御結婚をなさるような御幸運でいらっしゃいましたから、晴れがましくてお出入りもしにくかったのです。しかし人間世界は幸福なことばかりもありませんからね、その中でわれわれ階級の者がかえって気楽なんですよ。及びもない懸隔のあるお家《うち》でしたが、こちらはお気の毒なことになってしまいまして、私も心配なんですが、近くにおりますうちは、何かの場合に力にもなれると思っていましたものの、遠い所へ出て行くことになりますと、とてもあなたのことが気になってなりません」
と夫人は言うのであるが、女王は心の動いたふうもなかった。
「御好意はうれしいのですが、人並みの人にもなれない私はこのままここで死んで行くのが何よりもよく似合うことだろうと思います」
とだけ末摘花は言う。
「それはそうお思いになるのはごもっともですが、生きている人間であって、こんなひどい場所に住んでいるのなどはほかにめったにないでしょう。大将さんが修繕をしてくだすったら、またもう一度玉の台《うてな》にもなるでしょうと期待されますがね。近ごろはどうしたことでしょう、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮の姫君のほかはだれも嫌《きら》いになっておしまいになったふうですね。昔から恋愛関係をたくさん持っていらっしゃった方でしたが、それも皆清算しておしまいになりましたってね。ましてこんなみじめな生き方をしていらっしゃる人を、操《みさお》を立てて自分を待っていてくれたかと受け入れてくださることはむずかしいでしょうね」
こんなよけいなことまで言われてみると、そうであるかもしれないと末摘花は悲しく泣き入ってしまった。しかも九州行きを肯《うべな》うふうは微塵《みじん》もない。夫人はいろいろと誘惑を試みたあとで、
「では侍従だけでも」
と日の暮れていくのを見てせきたてた。侍従は名残《なごり》を惜しむ間もなくて、泣く泣く女王《にょおう》に、
「それでは、今日はあんなにおっしゃいますから、お送りにだけついてまいります。あちらがああおっしゃるのももっともですし、あなた様が行きたく思召《おぼしめ》さないのも御無理だとは思われませんし、私は中に立ってつらくてなりませんから」
と言う。この人までも女王を捨てて行こうとするのを、恨めしくも悲しくも末摘花は思うのであるが、引き止めようもなくてただ泣くばかりであった。形見に与えたい衣服も皆悪くなっていて長い間のこの人の好意に酬《むく》いる物がなくて、末摘花は自身の抜け毛を集めて鬘《かずら》にした九尺ぐらいの髪の美しいのを、雅味のある箱に入れて、昔のよい薫香《くんこう》一|壺《つぼ》をそれにつけて侍従へ贈った。
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「絶ゆまじきすぢを頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる
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死んだ乳母《まま》が遺言したこともあるからね、つまらない私だけれど一生あなたの世話をしたいと思っていた。あなたが捨ててしまうのももっともだけれど、だれがあなたの代わりになって私を慰めてくれる者があると思って立って行くのだろうと思うと恨めしいのよ」
と言って、女王は非常に泣いた。侍従も涙でものが言えないほどになっていた。
「乳母《まま》が申し上げましたことはむろんでございますが、そのほかにもごいっしょに長い間苦労をしてまいりましたのに、思いがけない縁に引かれて、しかも遠方へまで行ってしまいますとは」
と言って、また、
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「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけて誓はん
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命のございます間はあなた様に誠意をお見せします」
などとも言う。
「侍従はどうしました。暗くなりましたよ」
と大弐《だいに》夫人に小言《こごと》を言われて、侍従は夢中で車に乗ってしまった。そしてあとばかりが顧みられた。困りながらも長い間離れて行かなかった人が、こんなふうにして別れて行ったことで、女王はますます心細くなった。だれも雇い手のないような老いた女房までが、
「もっともですよ。どうしてこのままいられるものですか。私たちだってもう我慢ができませんよ」
こんなことを言って、ほかへ勤める手蔓《てづる》を捜し始めて、ここを出る決心をしたらしいことを言い合うのを聞くことも末摘花の身にはつらいことであった。十一月になると雪や霙《みぞれ》の日が多くなって、ほかの所では消えている間があっても、ここでは丈の高い枯れた雑草の蔭《かげ》などに深く積もったものは量《かさ》が高くなるばかりで越《こし》の白山《はくさん》をそこに置いた気がする庭を、今はもうだれ一人出入りする下男もなかった。こんな中につれづれな日を送るよりしかたのない末摘花の女王であった。泣き合い笑い合うこともあった侍従がいなくなってからは、夜の塵《ちり》のかかった帳台の中でただ一人寂しい思いをして寝た。
源氏は長くこがれ続けた紫夫人のもとへ帰りえた満足感が大きくて、ただの恋人たちの所などへは足が向かない時期でもあったから、常陸《ひたち》の宮の女王はまだ生きているだろうかというほどのことは時々心に上らないことはなかったが、捜し出してやりたいと思うことも、急ぐことと思われないでいるうちにその年も暮れた。四月ごろに花散里《はなちるさと》を訪ねて見たくなって夫人の了解を得てから源氏は二条の院を出た。幾日か続いた雨の残り雨らしいものが降ってやんだあとで月が出てきた。青春時代の忍び歩きの思い出される艶《えん》な夕月夜であった。車の中の源氏は昔をうつらうつらと幻に見ていると、形もないほどに荒れた大木が森のような邸《やしき》の前に来た。高い松に藤《ふじ》がかかって月の光に花のなびくのが見え、風といっしょにその香がなつかしく送られてくる。橘《たちばな》とはまた違った感じのする花の香に心が惹《ひ》かれて、車から少し顔を出すようにしてながめると、長く枝をたれた柳も、土塀《どべい》のない自由さに乱れ合っていた。見たことのある木立ちであると源氏は思ったが、以前の常陸の宮であることに気がついた。源氏は物哀れな気持ちになって車を止めさせた。例の惟光《これみつ》はこんな微行にはずれたことのない男で、ついて来ていた。
「ここは常陸の宮だったね」
「さようでございます」
「ここにいた人がまだ住んでいるかもしれない。私は訪ねてやらねばならないのだが、わざわざ出かけることもたいそうになるから、この機会に、もしその人がいれば逢ってみよう。はいって行って尋ねて来てくれ。住み主がだれであるかを聞いてから私のことを言わないと恥をかくよ」
と源氏は言った。
末摘花の君は物悩ましい初夏の日に、その昼間うたた寝をした時の夢に父宮を見て、さめてからも名残《なごり》の思いにとらわれて、悲しみながら雨の洩《も》って濡《ぬ》れた廂《ひさし》の室の端のほうを拭《ふ》かせたり部屋の中を片づけさせたりなどして、平生にも似ず歌を思ってみたのである。
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亡《な》き人を恋ふる袂《たもと》のほどなきに荒れたる軒の雫《しづく》さへ添ふ
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こんなふうに、寂しさを書いていた時が、源氏の車の止められた時であった。
惟光は邸の中へはいってあちらこちらと歩いて見て、人のいる物音の聞こえる所があるかと捜したのであるが、そんな物はない。自分の想像どおりにだれもいない、自分は往《ゆ》き返りにこの邸《やしき》は見るが、人の住んでいる所とは思われなかったのだからと思って惟光が足を返そうとする時に、月が明るくさし出したので、もう一度見ると、格子《こうし》を二間ほど上げて、そこの御簾《みす》は人ありげに動いていた。これが目にはいった刹那《せつな》は恐ろしい気さえしたが、寄って行って声をかけると、老人らしく咳《せき》を先に立てて答える女があった。
「いらっしゃったのはどなたですか」
惟光《これみつ》は自分の名を告げてから、
「侍従さんという方にちょっとお目にか
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