、煩悶《はんもん》しているのを見ては親の入道も不安になって、極楽の願いも忘れたように、仏勤めは怠《なま》けて、源氏の君の通って来ることを大事だと考えている。入道からいえば事が成就しているのであるが、その境地で新しく物思いをしているのが憐《あわ》れであった。二条の院の女王《にょおう》にこの噂《うわさ》が伝わっては、恋愛問題では嫉妬《しっと》する価値のあることでないとわかっていても、秘密にしておく自分の態度を恨めしがられては苦しくもあり、気恥ずかしくもあると思っていた源氏が紫夫人をどれほど愛しているかはこれだけでも想像することができるのである。女王も源氏を愛することの深いだけ、他の愛人との関係に不快な色を見せたそのおりおりのことを今思い出して、なぜつまらぬことで恨めしい心にさせたかと、取り返したいくらいにそれを後悔している源氏なのである。新しい恋人は得ても女王へ焦《こが》れている心は慰められるものでもなかったから、平生よりもまた情けのこもった手紙を源氏は京へ書いたのであるが、奥に今度のことを書いた。
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私は過去の自分のしたことではあるが、あなたを不快にさせたつまらぬいろいろな事件を思い出しては胸が苦しくなるのですが、それだのにまたここでよけいな夢を一つ見ました。この告白でどれだけあなたに隔てのない心を持っているかを思ってみてください。「誓ひしことも」(忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠《みかさ》の山の神もことわれ)という歌のように私は信じています。
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と書いて、また、
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何事も、
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しほしほと先《ま》づぞ泣かるるかりそめのみるめは海人《あま》のすさびなれども
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と書き添えた手紙であった。
京の返事は無邪気な可憐《かれん》なものであったが、それも奥に源氏の告白による感想が書かれてあった。
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お言いにならないではいらっしゃれないほど現在のお心を占めていますことをお報《し》らせくださいまして承知いたしましたが、私には新しい恋人に傾倒していらっしゃる御様子が昔のいろいろな場合と思い合わせて想像することもできます。
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うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと
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おおようではあるがくやしいと思う心も確かにかすめて書かれたものであるのを、源氏は哀れに思った。この手紙を手から離しがたくじっとながめていた。この当座幾日は山手の家へ行く気もしなかった。女は長い途絶えを見て、この予感はすでに初めからあったことであると歎《なげ》いて、この親子の間では最後には海へ身を投げればよいという言葉が以前によく言われたものであるが、いよいよそうしたいほどつらく思った。年取った親たちだけをたよりにして、いつ人並みの娘のような幸福が得られるものとも知れなかった過去は、今に比べて懊悩《おうのう》の片はしも知らない自分だった。世の中のことはこんなに苦しいものなのであろうか、恋愛も結婚も処女の時に考えていたより悲しいものであると、女は心に思いながらも源氏には平静なふうを見せて、不快を買うような言動もしない。源氏の愛は月日とともに深くなっていくのであるが、最愛の夫人が一人京に残っていて、今の女の関係をいろいろに想像すれば恨めしい心が動くことであろうと思われる苦しさから、浜の館《やかた》のほうで一人寝をする夜のほうが多かった。
源氏はいろいろに絵を描《か》いて、その時々の心を文章にしてつけていった。京の人に訴える気持ちで描いているのである。女王の返辞がこの絵巻から得られる期待で作られているのであった。感傷的な文学および絵画としてすぐれた作品である。どうして心が通じたのか二条の院の女王もものの身にしむ悲しい時々に、同じようにいろいろの絵を描《か》いていた。そしてそれに自身の生活を日記のようにして書いていた。この二つの絵巻の内容は興味の多いものに違いない。
春になったが帝《みかど》に御悩《ごのう》があって世間も静かでない。当帝の御子は右大臣の女《むすめ》の承香殿《じょうきょうでん》の女御《にょご》の腹に皇子があった。それはやっとお二つの方であったから当然東宮へ御位《みくらい》はお譲りになるのであるが、朝廷の御後見をして政務を総括的に見る人物にだれを決めてよいかと帝はお考えになった末、源氏の君を不運の中に沈淪《ちんりん》させておいて、起用しないことは国家の損失であると思召《おぼしめ》して、太后が御反対になったにもかかわらず赦免の御沙汰《ごさた》が、源氏へ下ることになった。去年から太后も物怪《もののけ》のために病んでおいでになり、そのほか天の諭《さと》しめいたことがしきりに起
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