近づいた夜、いつもよりは早く山手の家へ源氏は出かけた。まだはっきりとは今日までよく見なかった女は、貴女《きじょ》らしい気高《けだか》い様子が見えて、この身分にふさわしくない端麗さが備わっていた。捨てて行きがたい気がして、源氏はなんらかの形式で京へ迎えようという気になったのであった。そんなふうに言って女を慰めていた。女からもつくづくと源氏の見られるのも今夜がはじめてであった。長い苦労のあとは源氏の顔に痩《や》せが見えるのであるが、それがまた言いようもなく艶《えん》であった。あふれるような愛を持って、涙ぐみながら将来の約束を女にする源氏を見ては、これだけの幸福をうければもうこの上を願わないであきらめることもできるはずであると思われるのであるが、女は源氏が美しければ美しいだけ自身の価値の低さが思われて悲しいのであった。秋風の中で聞く時にことに寂しい波の音がする。塩を焼く煙がうっすり空の前に浮かんでいて、感傷的にならざるをえない風景がそこにはあった。

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このたびは立ち別るとも藻塩《もしほ》焼く煙は同じ方《かた》になびかん
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 と源氏が言うと、

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かきつめて海人《あま》の焼く藻《も》の思ひにも今はかひなき恨みだにせじ
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 とだけ言って、可憐《かれん》なふうに泣いていて多くは言わないのであるが、源氏に時々答える言葉には情のこまやかさが見えた。源氏が始終聞きたく思っていた琴を今日まで女の弾《ひ》こうとしなかったことを言って源氏は恨んだ。
「ではあとであなたに思い出してもらうために私も弾くことにしよう」
 と源氏は、京から持って来た琴を浜の家へ取りにやって、すぐれたむずかしい曲の一節を弾いた。深夜の澄んだ気の中であったから、非常に美しく聞こえた。入道は感動して、娘へも促すように自身で十三絃の琴を几帳《きちょう》の中へ差し入れた。女もとめどなく流れる涙に誘われたように、低い音で弾き出した。きわめて上手《じょうず》である。入道の宮の十三絃の技は現今第一であると思うのは、はなやかにきれいな音で、聞く者の心も朗らかになって、弾き手の美しさも目に髣髴《ほうふつ》と描かれる点などが非常な名手と思われる点である。これはあくまでも澄み切った芸で、真の音楽として批判すれば一段上の技倆《ぎりょう》がある
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