氏はどんなことにもすぐれた女になった女王がうれしかった。青春時代の恋愛も清算して、この人と静かに生を楽しもうとする時になっていたものをと思うと、源氏は運命が恨めしかった。夜も昼も女王の面影を思うことになって、堪えられぬほど恋しい源氏は、やはり若紫は須磨へ迎えようという気になった。左大臣からの返書には若君のことがいろいろと書かれてあって、それによってまた平生以上に子と別れている親の情は動くのであるが、頼もしい祖父母たちがついていられるのであるから、気がかりに思う必要はないとすぐに考えられて、子の闇《やみ》という言葉も、愛妻を思う煩悩《ぼんのう》の闇に比べて薄いものらしくこの人には見えた。
 源氏が須磨へ移った初めの記事の中に筆者は書き洩《も》らしてしまったが伊勢《いせ》の御息所《みやすどころ》のほうへも源氏は使いを出したのであった。あちらからもまたはるばると文《ふみ》を持って使いがよこされた。熱情的に書かれた手紙で、典雅な筆つきと見えた。
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どうしましても現実のことと思われませんような御|隠栖《いんせい》のことを承りました。あるいはこれもまだ私の暗い心から、夜の夢の続きを見ているのかもしれません。なお幾年もそうした運命の中にあなたがお置かれになることはおそらくなかろうと思われます。それを考えますと、罪の深い私は何時をはてともなくこの海の国にさすらえていなければならないことかと思われます。

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うきめかる伊勢をの海人《あま》を思ひやれもしほ垂《た》るてふ須磨の浦にて

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世の中はどうなるのでしょう。不安な思いばかりがいたされます。

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伊勢島や潮干《しほひ》のかたにあさりても言ふかひなきはわが身なりけり
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 などという長いものである。源氏の手紙に衝動を受けた御息所はあとへあとへと書き続《つ》いで、白い支那《しな》の紙四、五枚を巻き続けてあった。書風も美しかった。愛していた人であったが、その人の過失的な行為を、同情の欠けた心で見て恨んだりしたことから、御息所も恋をなげうって遠い国へ行ってしまったのであると思うと、源氏は今も心苦しくて、済まない目にあわせた人として御息所を思っているのである。そんな所へ情のある手紙が来たのであったから、使いまでも恋人のゆかりの親しい者に思われて、二、三日滞留させて伊勢の話を侍臣たちに問わせたりした。若やかな気持ちのよい侍であった。閑居のことであるから、そんな人もやや近い所でほのかに源氏の風貌《ふうぼう》に接することもあって侍は喜びの涙を流していた。伊勢の消息に感動した源氏の書く返事の内容は想像されないこともない。
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こうした運命に出逢う日を予知していましたなら、どこよりも私はあなたとごいっしょの旅に出てしまうべきだったなどと、つれづれさから癖になりました物思いの中にはそれがよく思われます。心細いのです。

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伊勢人の波の上漕ぐ小船《をぶね》にもうきめは刈らで乗らましものを
あまがつむ歎《なげ》きの中にしほたれて何時《いつ》まで須磨の浦に眺《なが》めん

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いつ口ずからお話ができるであろうと思っては毎日同じように悲しんでおります。
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 というのである。こんなふうに、どの人へも相手の心の慰むに足るような愛情を書き送っては返事を得る喜びにまた自身を慰めている源氏であった。花散里《はなちるさと》も悲しい心を書き送って来た。どれにも個性が見えて、恋人の手紙は源氏を慰めぬものもないが、また物思いの催される種《たね》ともなるのである。

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荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ繁《しげ》くも露のかかる袖かな
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 と歌っている花散里は、高くなったという雑草のほかに後見《うしろみ》をする者のない身の上なのであると源氏は思いやって、長雨に土塀《どべい》がところどころ崩《くず》れたことも書いてあったために、京の家司《けいし》へ命じてやって、近国にある領地から人夫を呼ばせて花散里の邸《やしき》の修理をさせた。
 尚侍《ないしのかみ》は源氏の追放された直接の原因になった女性であるから、世間からは嘲笑《ちょうしょう》的に注視され、恋人には遠く離れて、深い歎《なげ》きの中に溺《おぼ》れているのを、大臣は最も愛している娘であったから憐《あわ》れに思って、熱心に太后へ取りなしをしたし、帝《みかど》へもお詫びを申し上げたので、尚侍は公式の女官長であって、燕寝《えんしん》に侍する女御《にょご》、更衣《こうい》が起こした問題ではないから、過失として勅免があればそれでよいということになった。帝の御|愛寵《
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