現在の源氏に好意を表示しに来る人はないのである。社会全体が源氏を惜しみ、陰では政府をそしる者、恨む者はあっても、自己を犠牲にしてまで、源氏に同情しても、それが源氏のために何ほどのことにもならぬと思うのであろうが、恨んだりすることは紳士らしくないことであると思いながらも、源氏の心にはつい恨めしくなる人たちもさすがに多くて、人生はいやなものであると何につけても思われた。
 当日は終日夫人と語り合っていて、そのころの例のとおりに早暁に源氏は出かけて行くのであった。狩衣《かりぎぬ》などを着て、簡単な旅装をしていた。
「月が出てきたようだ。もう少し端のほうへ出て来て、見送ってだけでもください。あなたに話すことがたくさん積もったと毎日毎日思わなければならないでしょうよ。一日二日ほかにいても話がたまり過ぎる苦しい私なのだ」
 と言って、御簾《みす》を巻き上げて、縁側に近く女王《にょおう》を誘うと、泣き沈んでいた夫人はためらいながら膝行《いざ》って出た。月の光のさすところに非常に美しく女王はすわっていた。自分が旅中に死んでしまえばこの人はどんなふうになるであろうと思うと、源氏は残して行くのが気がかりになって悲しかったが、そんなことを思い出せば、いっそうこの人を悲しませることになると思って、

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「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな
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 はかないことだった」
 とだけ言った。悲痛な心の底は見せまいとしているのであった。

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惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな
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 と夫人は言う。それが真実の心の叫びであろうと思うと、立って行けない源氏であったが、夜が明けてから家を出るのは見苦しいと思って別れて行った。
 道すがらも夫人の面影が目に見えて、源氏は胸を悲しみにふさがらせたまま船に乗った。日の長いころであったし、追い風でもあって午後四時ごろに源氏の一行は須磨に着いた。旅をしたことのない源氏には、心細さもおもしろさも皆はじめての経験であった。大江殿という所は荒廃していて松だけが昔の名残《なごり》のものらしく立っていた。

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唐国《からくに》に名を残しける人よりもゆくへ知られぬ家居《いへゐ》をやせん
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 と源氏は口ずさまれた。渚《なぎさ》へ寄る波がすぐにまた帰る波になるのをながめて、「いとどしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくも帰る波かな」これも源氏の口に上った。だれも知った業平朝臣《なりひらあそん》の古歌であるが、感傷的になっている人々はこの歌に心を打たれていた。来たほうを見ると山々が遠く霞《かす》んでいて、三千里外の旅を歌って、櫂《かい》の雫《しずく》に泣いた詩の境地にいる気もした。

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ふる里を峯の霞《かすみ》は隔つれど眺《なが》むる空は同じ雲井か
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 総てのものが寂しく悲しく見られた。隠栖《いんせい》の場所は行平《ゆきひら》が「藻塩《もしほ》垂《た》れつつ侘《わ》ぶと答へよ」と歌って住んでいた所に近くて、海岸からはややはいったあたりで、きわめて寂しい山の中である。めぐらせた垣根《かきね》も見馴《みな》れぬ珍しい物に源氏は思った。茅葺《かやぶ》きの家であって、それに葦《あし》葺きの廊にあたるような建物が続けられた風流な住居《すまい》になっていた。都会の家とは全然変わったこの趣も、ただの旅にとどまる家であったならきっとおもしろく思われるに違いないと平生の趣味から源氏は思ってながめていた。ここに近い領地の預かり人などを呼び出して、いろいろな仕事を命じたり、良清朝臣《よしきよあそん》などが家職の下役しかせぬことにも奔走するのも哀れであった。きわめて短時日のうちにその家もおもしろい上品な山荘になった。水の流れを深くさせたり、木を植えさせたりして落ち着いてみればみるほど夢の気がした。摂津守《せっつのかみ》も以前から源氏に隷属していた男であったから、公然ではないが好意を寄せていた。そんなことで、準配所であるべき家も人出入りは多いのであるが、はかばかしい話し相手はなくて外国にでもいるように源氏は思われるのであった。こうしたつれづれな生活に何年も辛抱《しんぼう》することができるであろうかと源氏はみずから危《あやぶ》んだ。
 旅|住居《ずまい》がようやく整った形式を備えるようになったころは、もう五月雨《さみだれ》の季節になっていて、源氏は京の事がしきりに思い出された。恋しい人が多かった。歎《なげ》きに沈んでいた夫人、東宮のこと、無心に元気よく遊んでいた若君、そんなことばかりを思って悲しんでいた。源氏は京へ使いを出すことにした。二条の院へと入道の
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