いうきまり悪さを思って家にいた。源氏は斎宮の大人《おとな》びた返歌を微笑しながらながめていた。年齢以上によい貴女《きじょ》になっておられる気がすると思うと胸が鳴った。恋をすべきでない人に好奇心の動くのが源氏の習癖で、顔を見ようとすれば、よくそれもできた斎宮の幼少時代をそのままで終わったことが残念である。けれども運命はどうなっていくものか予知されないのが人生であるから、またよりよくその人を見ることのできる日を自分は待っているかもしれないのであるとも源氏は思った。見識の高い、美しい貴婦人であると名高い存在になっている御息所の添った斎宮の出発の列をながめようとして物見車《ものみぐるま》が多く出ている日であった。斎宮は午後四時に宮中へおはいりになった。宮の輿《こし》に同乗しながら御息所は、父の大臣が未来の后《きさき》に擬して東宮の後宮に備えた自分を、どんなにはなやかに取り扱ったことであったか、不幸な運命のはてに、后の輿でない輿へわずかに陪乗して自分は宮廷を見るのであると思うと感慨が無量であった。十六で皇太子の妃《ひ》になって、二十で寡婦になり、三十で今日また内裏《だいり》へはいったのである。
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そのかみを今日《けふ》はかけじと思へども心のうちに物ぞ悲しき
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御息所の歌である。斎宮は十四でおありになった。きれいな方である上に、錦繍《きんしゅう》に包まれておいでになったから、この世界の女人《にょにん》とも見えないほどお美しかった。斎王の美に御心《みこころ》を打たれながら、別れの御櫛《みぐし》を髪に挿《さ》してお与えになる時、帝《みかど》は悲しみに堪えがたくおなりになったふうで悄然《しょうぜん》としておしまいになった。式の終わるのを八省院《はっしょういん》の前に待っている斎宮の女房たちの乗った車から見える袖《そで》の色の美しさも今度は特に目を引いた。若い殿上役人が寄って行って、個人個人の別れを惜しんでいた。暗くなってから行列は動いて、二条から洞院《とういん》の大路《おおじ》を折れる所に二条の院はあるのであったから、源氏は身にしむ思いをしながら、榊《さかき》に歌を挿《さ》して送った。
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ふりすてて今日は行くとも鈴鹿《すずか》川|八十瀬《やそせ》の波に袖は濡れじや
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その時はもう暗くもあったし、あわただしくもあったので、翌日|逢坂山《おうさかやま》の向こうから御息所の返事は来たのである。
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鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢までたれか思ひおこせん
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簡単に書かれてあるが、貴人らしさのある巧妙な字であった。優しさを少し加えたら最上の字になるであろうと源氏は思った。霧が濃くかかっていて、身にしむ秋の夜明けの空をながめて、源氏は、
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行くかたをながめもやらんこの秋は逢坂山を霧な隔てそ
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こんな歌を口ずさんでいた。西の対へも行かずに終日物思いをして源氏は暮らした。旅人になった御息所はまして堪えがたい悲しみを味わっていたことであろう。
院の御病気は十月にはいってから御重体になった。この君をお惜しみしていないものはない。帝《みかど》も御心配のあまりに行幸あそばされた。御衰弱あそばされた院は東宮のことを返す返す帝へお頼みになった。次いで源氏に及んだ。
「私が生きていた時と同じように、大事も小事も彼を御相談相手になさい。年は若くても国家の政治をとるのに十分資格が備わっていると私は認める。一国を支配する骨相を持っている人です。だから私は彼がその点で逆に誤解を受けることがあってはならないとも思って、親王にしないで人臣の列に入れておいた。将来大臣として国務を任せようとしたのです。亡《な》くなったあとでも私のこの言葉を尊重してください」
前《さき》の帝《みかど》、今の君主の御父として御希望を述べられた御遺言も多かったが、女である筆者は気がひけて書き写すことができない。帝もこれが最後の御会見に院のお言いになることを悲しいふうで聞いておいでになったが、御遺言を違《たが》えぬということを繰り返してお誓いになった。風采《ふうさい》もごりっぱで、以前よりもいっそうお美しくお見えになる帝に院は御満足をお感じになり、頼もしさもお覚えになるのであった。高貴な御身でいらせられるのであるから、感情のままに父帝のもとにとどまっておいでになることはできない。その日のうちに還幸されたのであるから、お二方のお心は、お逢いになったあとに長く悲しみが残った。東宮も同時に行啓《ぎょうけい》になるはずであったがたいそうになることを思召《おぼしめ》して別の日に院のお見舞いをあそばされた。御年齢以上に大人らしくなっておいでになる愛らしい御様子で、しばらくぶりでお逢いになる喜びが勝って、今の場合も深くおわかりにならず、無邪気にうれしそうにして院の前へおいでになったのも哀れであった。その横で中宮《ちゅうぐう》が泣いておいでになるのであるから、院のお心はさまざまにお悲しいのである。種々と御教訓をお残しになるのであるが、幼齢の東宮にこれがわかるかどうかと疑っておいでになる御心《みこころ》からそこに寂しさと悲しさがかもされていった。源氏にも朝家《ちょうけ》の政治に携わる上に心得ていねばならぬことをお教えになり、東宮をお援《たす》けせよということを繰り返し繰り返し仰せられた。夜がふけてから東宮はお帰りになった。還啓に供奉《ぐぶ》する公卿《こうけい》の多さは行幸にも劣らぬものだった。御秘蔵子の東宮のお帰りになったのちの院の御心は最もお悲しかった。皇太后もおいでになるはずであったが、中宮がずっと院に添っておいでになる点が御不満で、躊躇《ちゅうちょ》あそばされたうちに院は崩御《ほうぎょ》になった。御仁慈の深い君にお別れしてどんなに多数の人が悲しんだかしれない。院の御位《みくらい》にお変わりあそばしただけで、政治はすべて思召しどおりに行なわれていたのであるから、今の帝はまだお若くて外戚の大臣が人格者でもなかったから、その人に政権を握られる日になれば、どんな世の中が現出するであろうと官吏たちは悲観しているのである。院が最もお愛しになった中宮や源氏の君はまして悲しみの中におぼれておいでになった。崩御後の御仏事なども多くの御遺子たちの中で源氏は目だって誠意のある弔い方をした。それが道理ではあるが源氏の孝心に同情する人が多かった。喪服姿の源氏がまた限りもなく清く見えた。去年今年と続いて不幸にあっていることについても源氏の心は厭世《えんせい》的に傾いて、この機会に僧になろうかとも思うのであったが、いろいろな絆《ほだし》を持っている源氏にそれは実現のできる事ではなかった。
四十九日までは女御《にょご》や更衣《こうい》たちが皆院の御所にこもっていたが、その日が過ぎると散り散りに別な実家へ帰って行かねばならなかった。これは十月二十日のことである。この時節の寂しい空の色を見てはだれも世がこれで終わっていくのではないかと心細くなるころである。中宮は最も悲しんでおいでになる。皇太后の性格をよく知っておいでになって、その方の意志で動く当代において、今後はどんなつらい取り扱いを受けねばならぬかというお心細さよりも、またない院の御愛情に包まれてお過ごしになった過去をお忍びになる悲しみのほうが大きかった。しかも永久に院の御所で人々とお暮らしになることはできずに、皆帰って行かねばならぬことも宮のお心を寂しくしていた。中宮は三条の宮へお帰りになるのである。お迎えに兄君の兵部卿《ひょうぶきょう》の宮がおいでになった。はげしい風の中に雪も混じって散る日である。すでに古御所《ふるごしょ》になろうとする人少なさが感ぜられて静かな時に、源氏の大将が中宮の御殿へ来て院の御在世中の話を宮としていた。前の庭の五葉が雪にしおれて下葉の枯れたのを見て、
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蔭《かげ》ひろみ頼みし松や枯れにけん下葉散り行く年の暮《くれ》かな
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宮がこうお歌いになった時、それが傑作でもないが、迫った実感は源氏を泣かせてしまった。すっかり凍ってしまった池をながめながら源氏は、
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さえわたる池の鏡のさやけさに見なれし影を見ぬぞ悲しき
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と言った。これも思ったままを三十一字にしたもので、源氏の作としては幼稚である。王命婦《おうみょうぶ》、
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年暮れて岩井の水も氷とぢ見し人影のあせも行くかな
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そのほかの女房の作は省略する。中宮の供奉《ぐぶ》を多数の高官がしたことなどは院の御在世時代と少しも変わっていなかったが、宮のお心持ちは寂しくて、お帰りになった御実家がかえって他家であるように思召されることによっても、近年はお許しがなくて御実家住まいがほとんどなかったことがおしのばれになった。
年が変わっても諒闇《りょうあん》の春は寂しかった。源氏はことさら寂しくて家に引きこもって暮らした。一月の官吏の更任期などには、院の御代《みよ》はいうまでもないがその後もなお同じように二条の院の門は訪客の馬と車でうずまったのだったのに、今年は目に見えてそうした来訪者の数が少なくなった。宿直《とのい》をしに来る人たちの夜具類を入れた袋もあまり見かけなくなった。親しい家司《けいし》たちだけが暢気《のんき》に事務を取っているのを見ても、主人である源氏は、自家の勢力の消長と人々の信頼が比例するものであることが思われておもしろくなかった。右大臣家の六の君は二月に尚侍《ないしのかみ》になった。院の崩御によって前《さきの》尚侍が尼になったからである。大臣家が全力をあげて後援していることであったし、自身に備わった美貌《びぼう》も美質もあって、後宮の中に抜け出た存在を示していた。皇太后は実家においでになることが多くて、稀《まれ》に参内になる時は梅壺《うめつぼ》の御殿を宿所に決めておいでになった。それで弘徽殿《こきでん》が尚侍の曹司《ぞうし》になっていた。隣の登花殿などは長く捨てられたままの形であったが、二つが続けて使用されて今ははなやかな場所になった。女房なども無数に侍していて、派手《はで》な後宮《こうきゅう》生活をしながらも、尚侍の人知れぬ心は源氏をばかり思っていた。源氏が忍んで手紙を送って来ることも以前どおり絶えなかった。人目につくことがあったらと恐れながら、例の癖で、六の君が後宮へはいった時から源氏の情炎がさらに盛んになった。院がおいでになったころは御遠慮があったであろうが、積年の怨みを源氏に酬《むく》いるのはこれからであると烈《はげ》しい気質の太后は思っておいでになった。源氏に対して何かの場合に意を得ないことを政府がする、それが次第に多くなっていくのを見て、源氏は予期していたことではあっても、過去に経験しなかった不快さを始終味わうのに堪えがたくなって、人との交際もあまりしないのであった。左大臣も不愉快であまり御所へも出なかった。亡《な》くなった令嬢へ東宮のお話があったにもかかわらず源氏の妻にさせたことで太后は含んでおいでになった。右大臣との仲は初めからよくなかった上に、左大臣は前代にいくぶん専横的にも政治を切り盛りしたのであったから、当帝の外戚として右大臣が得意になっているのに対しては喜ばないのは道理である。源氏は昔の日に変わらずよく左大臣家を訪《たず》ねて行き故夫人の女房たちを愛護してやることを忘れなかった。非常に若君を源氏の愛することにも大臣家の人たちは感激していて、そのためにまたいっそう小公子は大切がられた。過去の源氏の君は社会的に見てあまりに幸福過ぎた、見ていて目まぐるしい気がするほどであったが、このごろは通っていた恋人たちとも双方の事情から関係が絶えてしまったのも多かったし、それ以下の軽い関係の恋人たちの家を訪ねて行くようなことにも、もうきまりの悪さを
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