忘れていなければならないと辛抱《しんぼう》しているのですが、御訪問くださいましたことでかえってその努力がむだになってしまいました」
 それから、また、
「昔からこちらで作らせますお召し物も、あれからのちは涙で私の視力も曖昧《あいまい》なんですから不出来にばかりなりましたが、今日だけはこんなものでもお着かえくださいませ」
 と言って、掛けてある物のほかに、非常に凝った美しい衣裳《いしょう》一|揃《そろ》いが贈られた。当然今日の着料になる物としてお作らせになった下襲《したがさね》は、色も織り方も普通の品ではなかった。着ねば力をお落としになるであろうと思って源氏はすぐに下襲をそれに変えた。もし自分が来なかったら失望あそばしたであろうと思うと心苦しくてならないものがあった。お返辞の挨拶は、
「春の参りましたしるしに、当然参るべき私がお目にかかりに出たのですが、あまりにいろいろなことが思い出されまして、お話を伺いに上がれません。

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あまたとし今日改めし色ごろもきては涙ぞ降るここちする
[#ここで字下げ終わり]

 自分をおさえる力もないのでございます」
 と取り次がせた。
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