しいことはございません」
 と大臣は言ってもまた泣くのである。
「つまらない忖度《そんたく》をして悲しがる女房たちですね。ただ今のお言葉のように、私はどんなことも自分の信頼する妻は許してくれるものと暢気《のんき》に思っておりまして、わがままに外を遊びまわりまして御無沙汰《ごぶさた》をするようなこともありましたが、もう私をかばってくれる妻がいなくなったのですから私は暢気な心などを持っていられるわけもありません。すぐにまた御訪問をしましょう」
 と言って、出て行く源氏を見送ったあとで、大臣は今日まで源氏の住んでいた座敷、かつては娘夫婦の暮らした所へはいって行った。物の置き所も、してある室内の装飾も、以前と何一つ変わっていないが、はなはだしく空虚なものに思われた。帳台の前には硯《すずり》などが出ていて、むだ書きをした紙などもあった。涙をしいて払って、目をみはるようにして大臣はそれを取って読んでいた。若い女房たちは悲しんでいながらもおかしがった。古い詩歌がたくさん書かれてある。草書《そうしょ》もある、楷書《かいしょ》もある。
「上手《じょうず》な字だ」
 歎息《たんそく》をしたあとで、大臣はじっと空間をながめて物思わしいふうをしていた。源氏が婿でなくなったことが老大臣には惜しんでも惜しんでも足りなく思えるらしい。「旧枕故衾誰与共《きうちんこきんたれとともにせん》」という詩の句の書かれた横に、

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亡《な》き魂《たま》ぞいとど悲しき寝し床《とこ》のあくがれがたき心ならひに
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 と書いてある。「鴛鴦瓦冷霜花重《ゑんあうかはらにひえてさうくわおもし》」と書いた所にはこう書かれてある。

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君なくて塵《ちり》積もりぬる床なつの露うち払ひいく夜|寝《い》ぬらん
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 ここにはいつか庭から折らせて源氏が宮様へ贈ったのと同じ時の物らしい撫子《なでしこ》の花の枯れたのがはさまれていた。大臣は宮にそれらをお見せした。
「私がこれほどかわいい子供というものがあるだろうかと思うほどかわいかった子は、私と長く親子の縁を続けて行くことのできない因縁の子だったかと思うと、かえってなまじい親子でありえたことが恨めしいと、こんなふうにしいて思って忘れようとするのですが、日がたつにしたがって堪えられなく恋しくなるのをどうすればいいかと困っている。それに大将さんが他人になっておしまいになることがどうしても悲しくてならない。一日二日と中があき、またずっとおいでにならない日のあったりした時でさえも、私はあの方にお目にかかれないことで胸が痛かったのです。もう大将を一家の人と見られなくなって、どうして私は生きていられるか」
 とうとう声を惜しまずに大臣は泣き出したのである。部屋にいた少し年配な女房たちが皆同時に声を放って泣いた。この夕方の家の中の光景は寒気《さむけ》がするほど悲しいものであった。若い女房たちはあちらこちらにかたまって、それはまた自身たちの悲しみを語り合っていた。
「殿様がおっしゃいますようにして、若君にお仕えして、私はそれを悲しい慰めにしようと思っていますけれど、あまりにお形見は小さい公子様ですわね」
 と言う者もあった。
「しばらく実家へ行っていて、また来るつもりです」
 こんなふうに希望している者もあった。自分らどうしの別れも相当に深刻に名残《なごり》惜しがった。
 院では源氏を御覧になって、
「たいへん痩《や》せた。毎日精進をしていたせいかもしれない」
 と御心配をあそばして、お居間で食事をおさせになったりした。いろいろとおいたわりになる御親心を源氏はもったいなく思った。中宮《ちゅうぐう》の御殿へ行くと、女房たちは久しぶりの源氏の伺候を珍しがって、皆集まって来た。中宮も命婦《みょうぶ》を取り次ぎにしてお言葉があった。
「大きな打撃をお受けになったあなたですから、時がたちましてもなかなかお悲しみはゆるくなるようなこともないでしょう」
「人生の無常はもうこれまでにいろいろなことで教訓されて参った私でございますが、目前にそれが証明されてみますと、厭世《えんせい》的にならざるをえませんで、いろいろと煩悶《はんもん》をいたしましたが、たびたびかたじけないお言葉をいただきましたことによりまして、今日までこうしていることができたのでございます」
 と源氏は挨拶《あいさつ》をした。こんな時でなくても心の湿ったふうのよく見える人が、今日はまたそのほかの寂しい影も添って人々の同情を惹《ひ》いた。無紋の袍《ほう》に灰色の下襲《したがさね》で、冠《かむり》は喪中の人の用いる巻纓《けんえい》であった。こうした姿は美しい人に落ち着きを加えるもので艶《えん》な趣が見えた。東宮へも久しく御無沙汰
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