あるのを洒落《しゃ》れた書き方で紛らしてある字の品の悪いものだった。灯《ひ》の前にいた夜の顔も連想《れんそう》されるのである。碁盤を中にして慎み深く向かい合ったほうの人の姿態にはどんなに悪い顔だちであるにもせよ、それによって男の恋の減じるものでないよさがあった。一方は何の深味もなく、自身の若い容貌《ようぼう》に誇ったふうだったと源氏は思い出して、やはりそれにも心の惹《ひ》かれるのを覚えた。まだ軒端の荻との情事は清算されたものではなさそうである。
源氏は夕顔の四十九日の法要をそっと叡山《えいざん》の法華堂《ほっけどう》で行なわせることにした。それはかなり大層なもので、上流の家の法会《ほうえ》としてあるべきものは皆用意させたのである。寺へ納める故人の服も新調したし寄進のものも大きかった。書写の経巻にも、新しい仏像の装飾にも費用は惜しまれてなかった。惟光《これみつ》の兄の阿闍梨《あじゃり》は人格者だといわれている僧で、その人が皆引き受けてしたのである。源氏の詩文の師をしている親しい某|文章博士《もんじょうはかせ》を呼んで源氏は故人を仏に頼む願文《がんもん》を書かせた。普通の例と違って故人の名は現わさずに、死んだ愛人を阿弥陀仏《あみだぶつ》にお託しするという意味を、愛のこもった文章で下書きをして源氏は見せた。
「このままで結構でございます。これに筆を入れるところはございません」
博士はこう言った。激情はおさえているがやはり源氏の目からは涙がこぼれ落ちて堪えがたいように見えた。その博士は、
「何という人なのだろう、そんな方のお亡《な》くなりになったことなど話も聞かないほどの人だのに、源氏の君があんなに悲しまれるほど愛されていた人というのはよほど運のいい人だ」
とのちに言った。作らせた故人の衣裳《いしょう》を源氏は取り寄せて、袴《はかま》の腰に、
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泣く泣くも今日《けふ》はわが結《ゆ》ふ下紐《したひも》をいづれの世にか解けて見るべき
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と書いた。四十九日の間はなおこの世界にさまよっているという霊魂は、支配者によって未来のどの道へ赴《おもむ》かせられるのであろうと、こんなことをいろいろと想像しながら般若心経《はんにゃしんぎょう》の章句を唱えることばかりを源氏はしていた。頭中将に逢《あ》うといつも胸騒ぎがして、あの故人が撫子《なでしこ》にたとえたという子供の近ごろの様子などを知らせてやりたく思ったが、恋人を死なせた恨みを聞くのがつらくて打ちいでにくかった。
あの五条の家では女主人の行くえが知れないのを捜す方法もなかった。右近《うこん》までもそれきり便《たよ》りをして来ないことを不思議に思いながら絶えず心配をしていた。確かなことではないが通って来る人は源氏の君ではないかといわれていたことから、惟光になんらかの消息を得ようともしたが、まったく知らぬふうで、続いて今も女房の所へ恋の手紙が送られるのであったから、人々は絶望を感じて、主人を奪われたことを夢のようにばかり思った。あるいは地方官の息子《むすこ》などの好色男が、頭中将を恐れて、身の上を隠したままで父の任地へでも伴って行ってしまったのではないかとついにはこんな想像をするようになった。この家の持ち主は西の京の乳母《めのと》の娘だった。乳母の娘は三人で、右近だけが他人であったから便りを聞かせる親切がないのだと恨んで、そして皆夫人を恋しがった。右近のほうでは夫人を頓死《とんし》させた責任者のように言われるのをつらくも思っていたし、源氏も今になって故人の情人が自分であった秘密を人に知らせたくないと思うふうであったから、そんなことで小さいお嬢さんの消息も聞けないままになって不本意な月日が両方の間にたっていった。
源氏はせめて夢にでも夕顔を見たいと、長く願っていたが比叡《ひえい》で法事をした次の晩、ほのかではあったが、やはりその人のいた場所は某《それがし》の院で、源氏が枕《まくら》もとにすわった姿を見た女もそこに添った夢を見た。このことで、荒廃した家などに住む妖怪《あやかし》が、美しい源氏に恋をしたがために、愛人を取り殺したのであると不思議が解決されたのである。源氏は自身もずいぶん危険だったことを知って恐ろしかった。
伊予介《いよのすけ》が十月の初めに四国へ立つことになった。細君をつれて行くことになっていたから、普通の場合よりも多くの餞別《せんべつ》品が源氏から贈られた。またそのほかにも秘密な贈り物があった。ついでに空蝉《うつせみ》の脱殻《ぬけがら》と言った夏の薄衣《うすもの》も返してやった。
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逢《あ》ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖《そで》の朽ちにけるかな
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細々《こまごま》しい手紙の内容は省略する。贈り物の使いは帰ってしまったが、そのあとで空蝉は小君《こぎみ》を使いにして小袿《こうちぎ》の返歌だけをした。
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蝉の羽もたち変へてける夏ごろもかへすを見ても音《ね》は泣かれけり
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源氏は空蝉を思うと、普通の女性のとりえない態度をとり続けた女ともこれで別れてしまうのだと歎《なげ》かれて、運命の冷たさというようなものが感ぜられた。
今日《きょう》から冬の季にはいる日は、いかにもそれらしく、時雨《しぐれ》がこぼれたりして、空の色も身に沁《し》んだ。終日源氏は物思いをしていて、
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過ぎにしも今日別るるも二みちに行く方《かた》知らぬ秋の暮《くれ》かな
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などと思っていた。秘密な恋をする者の苦しさが源氏にわかったであろうと思われる。
こうした空蝉とか夕顔とかいうようなはなやかでない女と源氏のした恋の話は、源氏自身が非常に隠していたことがあるからと思って、最初は書かなかったのであるが、帝王の子だからといって、その恋人までが皆完全に近い女性で、いいことばかりが書かれているではないかといって、仮作したもののように言う人があったから、これらを補って書いた。なんだか源氏に済まない気がする。
底本:「全訳源氏物語 上巻」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年8月10日改版初版発行
1994(平成6)年12月20日56版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月5日71版を使用しました。
入力:上田英代
校正:小林繁雄、鈴木厚司
2003年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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