ったと恨めしく思わないだろうか、こんなことを思うと胸がせき上がってくるようで、頭も痛く、からだには発熱も感ぜられて苦しい。こうして自分も死んでしまうのであろうと思われるのである。八時ごろになっても源氏が起きぬので、女房たちは心配をしだして、朝の食事を寝室の主人へ勧めてみたが無駄《むだ》だった。源氏は苦しくて、そして生命《いのち》の危険が迫ってくるような心細さを覚えていると、宮中のお使いが来た。帝《みかど》は昨日《きのう》もお召しになった源氏を御覧になれなかったことで御心配をあそばされるのであった。左大臣家の子息たちも訪問して来たがそのうちの頭中将《とうのちゅうじょう》にだけ、
「お立ちになったままでちょっとこちらへ」
と言わせて、源氏は招いた友と御簾《みす》を隔てて対した。
「私の乳母《めのと》の、この五月ごろから大病をしていました者が、尼になったりなどしたものですから、その効験《ききめ》でか一時|快《よ》くなっていましたが、またこのごろ悪くなりまして、生前にもう一度だけ訪問をしてくれなどと言ってきているので、小さい時から世話になった者に、最後に恨めしく思わせるのは残酷だと思って、訪問しましたところがその家の召使の男が前から病気をしていて、私のいるうちに亡《な》くなったのです。恐縮して私に隠して夜になってからそっと遺骸を外へ運び出したということを私は気がついたのです。御所では神事に関した御用の多い時期ですから、そうした穢《けが》れに触れた者は御遠慮すべきであると思って謹慎をしているのです。それに今朝方《けさがた》からなんだか風邪《かぜ》にかかったのですか、頭痛がして苦しいものですからこんなふうで失礼します」
などと源氏は言うのであった。中将は、
「ではそのように奏上しておきましょう。昨夜も音楽のありました時に、御自身でお指図《さしず》をなさいましてあちこちとあなたをお捜させになったのですが、おいでにならなかったので、御機嫌《ごきげん》がよろしくありませんでした」
と言って、帰ろうとしたがまた帰って来て、
「ねえ、どんな穢《けが》れにおあいになったのですか。さっきから伺ったのはどうもほんとうとは思われない」
と、頭中将から言われた源氏ははっとした。
「今お話ししたようにこまかにではなく、ただ思いがけぬ穢れにあいましたと申し上げてください。こんなので今日は失礼します」
素知らず顔には言っていても、心にはまた愛人の死が浮かんできて、源氏は気分も非常に悪くなった。だれの顔も見るのが物憂《ものう》かった。お使いの蔵人《くろうど》の弁《べん》を呼んで、またこまごまと頭中将に語ったような行触《ゆきぶ》れの事情を帝へ取り次いでもらった。左大臣家のほうへもそんなことで行かれぬという手紙が行ったのである。
日が暮れてから惟光《これみつ》が来た。行触《ゆきぶ》れの件を発表したので、二条の院への来訪者は皆庭から取り次ぎをもって用事を申し入れて帰って行くので、めんどうな人はだれも源氏の居間にいなかった。惟光を見て源氏は、
「どうだった、だめだったか」
と言うと同時に袖《そで》を顔へ当てて泣いた。惟光も泣く泣く言う、
「もう確かにお亡《かく》れになったのでございます。いつまでお置きしてもよくないことでございますから、それにちょうど明日は葬式によい日でしたから、式のことなどを私の尊敬する老僧がありまして、それとよく相談をして頼んでまいりました」
「いっしょに行った女は」
「それがまたあまりに悲しがりまして、生きていられないというふうなので、今朝《けさ》は渓《たに》へ飛び込むのでないかと心配されました。五条の家へ使いを出すというのですが、よく落ち着いてからにしなければいけないと申して、とにかく止めてまいりました」
惟光の報告を聞いているうちに、源氏は前よりもいっそう悲しくなった。
「私も病気になったようで、死ぬのじゃないかと思う」
と言った。
「そんなふうにまでお悲しみになるのでございますか、よろしくございません。皆運命でございます。どうかして秘密のうちに処置をしたいと思いまして、私も自身でどんなこともしているのでございますよ」
「そうだ、運命に違いない。私もそう思うが軽率《けいそつ》な恋愛|漁《あさ》りから、人を死なせてしまったという責任を感じるのだ。君の妹の少将の命婦《みょうぶ》などにも言うなよ。尼君なんかはまたいつもああいったふうのことをよくないよくないと小言《こごと》に言うほうだから、聞かれては恥ずかしくてならない」
「山の坊さんたちにもまるで話を変えてしてございます」
と惟光が言うので源氏は安心したようである。主従がひそひそ話をしているのを見た女房などは、
「どうも不思議ですね、行触《ゆきぶ》れだとお言いになって参内もなさらないし、また何か悲しいことがあるようにあんなふうにして話していらっしゃる」
腑《ふ》に落ちぬらしく言っていた。
「葬儀はあまり簡単な見苦しいものにしないほうがよい」
と源氏が惟光《これみつ》に言った。
「そうでもございません。これは大層《たいそう》にいたしてよいことではございません」
と否定してから、惟光が立って行こうとするのを見ると、急にまた源氏は悲しくなった。
「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度|遺骸《いがい》を見たいのだ。それをしないではいつまでも憂鬱《ゆううつ》が続くように思われるから、馬ででも行こうと思うが」
主人の望みを、とんでもない軽率なことであると思いながらも惟光は止めることができなかった。
「そんなに思召《おぼしめ》すのならしかたがございません。では早くいらっしゃいまして、夜の更《ふ》けぬうちにお帰りなさいませ」
と惟光は言った。五条通いの変装のために作らせた狩衣《かりぎぬ》に着更《きが》えなどして源氏は出かけたのである。病苦が朝よりも加わったこともわかっていて源氏は、軽はずみにそうした所へ出かけて、そこでまたどんな危険が命をおびやかすかもしれない、やめたほうがいいのではないかとも思ったが、やはり死んだ夕顔に引かれる心が強くて、この世での顔を遺骸で見ておかなければ今後の世界でそれは見られないのであるという思いが心細さをおさえて、例の惟光と随身を従えて出た。非常に路《みち》のはかがゆかぬ気がした。十七日の月が出てきて、加茂川の河原を通るころ、前駆の者の持つ松明《たいまつ》の淡い明りに鳥辺野《とりべの》のほうが見えるというこんな不気味な景色《けしき》にも源氏の恐怖心はもう麻痺《まひ》してしまっていた。ただ悲しみに胸が掻《か》き乱されたふうで目的地に着いた。凄《すご》い気のする所である。そんな所に住居《すまい》の板屋があって、横に御堂《みどう》が続いているのである。仏前の燈明の影がほのかに戸からすいて見えた。部屋《へや》の中には一人の女の泣き声がして、その室の外と思われる所では、僧の二、三人が話しながら声を多く立てぬ念仏をしていた。近くにある東山の寺々の初夜の勤行《ごんぎょう》も終わったころで静かだった。清水《きよみず》の方角にだけ灯《ひ》がたくさんに見えて多くの参詣《さんけい》人の気配《けはい》も聞かれるのである。主人の尼の息子《むすこ》の僧が尊い声で経を読むのが聞こえてきた時に、源氏はからだじゅうの涙がことごとく流れて出る気もした。中へはいって見ると、灯をあちら向きに置いて、遺骸との間に立てた屏風《びょうぶ》のこちらに右近《うこん》は横になっていた。どんなに侘《わび》しい気のすることだろうと源氏は同情して見た。遺骸はまだ恐ろしいという気のしない物であった。美しい顔をしていて、まだ生きていた時の可憐《かれん》さと少しも変わっていなかった。
「私にもう一度、せめて声だけでも聞かせてください。どんな前生の縁だったかわずかな間の関係であったが、私はあなたに傾倒した。それだのに私をこの世に捨てて置いて、こんな悲しい目をあなたは見せる」
もう泣き声も惜しまずはばからぬ源氏だった。僧たちもだれとはわからぬながら、死者に断ちがたい愛着を持つらしい男の出現を見て、皆涙をこぼした。源氏は右近に、
「あなたは二条の院へ来なければならない」
と言ったのであるが、
「長い間、それは小さい時から片時もお離れしませんでお世話になりました御主人ににわかにお別れいたしまして、私は生きて帰ろうと思う所がございません。奥様がどうおなりになったかということを、どうほかの人に話ができましょう。奥様をお亡《な》くししましたほかに、私はまた皆にどう言われるかということも悲しゅうございます」
こう言って右近は泣きやまない。
「私も奥様の煙といっしょにあの世へ参りとうございます」
「もっともだがしかし、人世とはこんなものだ。別れというものに悲しくないものはないのだ。どんなことがあっても寿命のある間には死ねないのだよ。気を静めて私を信頼してくれ」
と言う源氏が、また、
「しかしそういう私も、この悲しみでどうなってしまうかわからない」
と言うのであるから心細い。
「もう明け方に近いころだと思われます。早くお帰りにならなければいけません」
惟光《これみつ》がこう促すので、源氏は顧みばかりがされて、胸も悲しみにふさがらせたまま帰途についた。露の多い路《みち》に厚い朝霧が立っていて、このままこの世でない国へ行くような寂しさが味わわれた。某院の閨《ねや》にいたままのふうで夕顔が寝ていたこと、その夜上に掛けて寝た源氏自身の紅の単衣《ひとえ》にまだ巻かれていたこと、などを思って、全体あの人と自分はどんな前生の因縁があったのであろうと、こんなことを途々《みちみち》源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうでもなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。失心したふうで、
「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない気がする」
と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確《しか》とした人間だったら、あんなことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。川の水で手を洗って清水《きよみず》の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶《はんもん》した。源氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏《みほとけ》を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ行き着いた。
毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、
「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行《おしのび》をなさる中でも昨日《きのう》はたいへんお加減が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですから、困ったことですね」
こんなふうに歎息《たんそく》をしていた。
源氏自身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日続いたあとはまた甚《はなはだ》しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝《みかど》も非常に御心痛あそばされてあちらでもこちらでも間断なく祈祷《きとう》が行なわれた。特別な神の祭り、祓《はら》い、修法《しゅほう》などである。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋《へや》なども近い所へ与えて、手もとで使う女房の一人にした。惟光《これみつ》は源氏の病の重いことに顛倒《てんとう》するほどの心配をしながら、じっとその気持ちをおさえて、馴染《なじみ》のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情してよく世話をしてやった。源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居間の用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴《な》れてきた。濃い色の喪服を着た右近は、容貌《ようぼう》などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、そ
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