いには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦《みょうぶ》は泣く泣く、
「もう非常に遅《おそ》いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」
 と言って、帰る仕度《したく》をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。

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鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽かず降る涙かな
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 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。

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「いとどしく虫の音《ね》しげき浅茅生《あさぢふ》に露置き添ふる雲の上人《うへびと》
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 かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」
 と未亡人は女房に言わせた。意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣《からぎぬ》と裳《も》の一揃《ひとそろ》えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。
 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく物足らず思われることが多く、お優しい帝《みかど》の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪《た》えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。
 御所へ帰った命婦は、まだ宵《よい》のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろ始終帝の御覧になるものは、玄宗《げんそう》皇帝と楊貴妃《ようきひ》の恋を題材にした白楽天の長恨歌《ちょうごんか》を、亭子院《ていしいん》が絵にあそばして、伊勢《いせ》や貫之《つらゆき》に歌をお詠《よ》ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那《しな》のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言《だいなごん》家の様子をお聞きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。未亡人の御返事を帝は御覧になる。
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もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。

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荒き風防ぎし蔭《かげ》の枯れしより小萩《こはぎ》が上ぞしづ心無き
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 というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠《よ》んでいるのであるからと寛大に御覧になった。帝はある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壺《きりつぼ》の更衣《こうい》の上がって来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬《むく》いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」
 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后《きさき》の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
 などという仰せがあった。命婦《みょうぶ》は贈られた物を御前《おまえ》へ並べた。これが唐《から》の幻術師が他界の楊貴妃《ようきひ》に逢《あ》って得て来た玉の簪《かざし》であったらと、帝はかいないこともお思いになった。

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尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂《たま》のありかをそこと知るべく
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 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描《か》いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液《たいえき》の池の蓮花《れんげ》にも、未央宮《びおうきゅう》の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐《から》の服
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