めに少なからぬ打撃と云はねばなりません。中村家には意地の悪い女中が二人居ました。お幸が通ひで夜遅くなつてからの用をしないのが二人には不平でならないことだつたのでせうが、おつるの居る間は目に見える程の迫害はしませんでした。中村家のお内儀《かみ》さんは病身でしたから台所のことなどは二人の女中が切つて廻《まは》して居るのでした。お幸のしなければならない用事が無暗《むやみ》に殖えて来て自然お内儀《かみ》さんの部屋へ行くことが少くなると、其処《そこ》へはまた外の用をどつさりお幸に押し附けた女中の一人が行つて、お嬢様が見ていらつしやらないと思つて用事を疎《おろそ》かにすると云ふやうな告口《つげぐち》がされて居ました。家《うち》へ帰つて家《うち》の用事をする人に夜分の食事はさせないでもいゝと云ふやうな無茶な理屈を拵へて、下男と下女が一緒に食べる夜の食卓にお幸の席を作つてやらないやうなことを二人の女中は仕初めました。家《うち》へ帰つて更に食事をすると云ふことは母親に済まないことのやうにお幸は思はれるものですから、昼の食事を少し余計目に食べて我慢をしようとすればまた二人の意地悪女はそれも口穢《くちぎたな》く罵《ののし》りました。今日で丁度《ちやうど》五日の間お幸は日に二食で過ごして来ました。
お幸は中村家の裏口を出てほつと息を吐《つ》きました。
「何か別のことを考へなくては。」
お幸は思はず独言《ひとりごと》をしました。其処には轡虫《くつわむし》が沢山|啼《な》いて居ました。前側は黒く続いた中村家の納屋で、あの向うが屋根より高く穂を上げた黍《きび》の畑《はた》になつて居ます。お幸は黍がこんなに大きくなつてからはつひ人かと思ふことが多くて、歩き馴《な》れた道も無気味でした。中村家の母家の陰になつて居た月は河原へ出ると目の醒《さ》めるやうな光をお幸に浴びせかけました。水も砂原もきら/\と銀色に光つて居ました。川下の方に村の真実《ほんたう》の橋はあつて、お幸の今渡つて行くのは中村家の人と、此処《ここ》へ出入する者の為《た》めに懸けられてある細い細い板橋です。鳴り出した西念寺《さいねんじ》の十時の鐘の第一音に弾《はじ》き出されるやうにお幸は橋を渡つてしまひました。一町程行くと右に文珠様《もんじゆさま》の堂があります。お堂は白い壁の塀《へい》で囲まれて居ます。白壁には名灸《めいきう》やら堺
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