トランクや鞄の鍵をどうしたかと云ふ疑ひを抱《だ》いて書斎へ行つた。そして赤地錦《あかぢにしき》の紙入《かみいれ》を違棚《ちがひだな》から出した中を調べて見たが見えない。
『あら。』
 と独言《ひとりごと》を云つて首を傾けて見たが外に何の心覚えもない。
『お照さん、鞄の鍵を私落して来てよ。』
 恥《はづか》しい事を思ひ切つて云ふやうに鏡子は隣の間の妹に声を掛けた。
『何処《どこ》かにあるのぢやありませんか。』
 入《はい》つて来たお照の顔は目の尻、結んだ口の左右に上向いた線がある。
『着物を脱いだ[#「脱いだ」は底本では「晩いだ」]所になかつたこと。』
『いいえ、ありません。』
『ぢやあ汽車の中なんだわ。』
『大変ですね。』
『さうだわ。』
『困りますね。』
『いいわ。どうかなるわ。けれどあなた一寸《ちよつと》新橋の停車場《すていしよん》へ電話で聞いて見て下すつても好いわ。あのう、食堂車の前の箱ですつて。』
『さういたしませう。』
 お照は立ちしなに襟先を一寸《ちよつと》引いて、上褄《うはづま》を直して出て行つた。
 鏡子が茫《ばう》として居る処《ところ》へ南が出て来た。
『おや、南さん。』
 鏡子の頬に涙がほろほろと零《こぼ》れた。
『おめでたう。』
 其《その》儘じつと南は俯《うつ》向いて居て、細い指だけは火鉢の上へかざされた。この無言の中へ夏子の入《はい》つて来たのを鏡子は嬉しくなく思つた。英也も来て南に初対面の挨拶をして居た。
 出入《でいり》の料理屋の菊屋から奥様にと云つて寿司の重詰《ぢうづめ》が来たと云つてお照が見せに来た。片手は背に廻して先刻《さつき》から泣いて居る榮子を負《お》ぶつて居るのである。
『何故《なぜ》そんなに榮子は泣くのでせう。』
『先刻《さつき》ね、今晩から母《かあ》さんとおねんねなさいと云つたら、それから泣き初めたのですよ。』
 お照は口を曲げてかう云つた。
『そんなことを云はないでもいいに。』
 と云つて鏡子は榮子の顔を見て一寸《ちよつと》眉を寄せた。
『榮ちやん、いけませんねえ。』
 と云つて榮子を夏子が抱き取つて二人の女は一緒に立つて行つた。
『焼けましたねえ。』
 南は気の毒さうにまじまじと師の奥様の顔を眺めて居る。
『情ないのねえ。けれど荒木さんは私を若くなつたと神戸では云つたのね。』
 鏡子は英也の顔を見て笑ひながら云つた。
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