かる》今夜はよく眠り候へば、うつかり長きこと書きつらね候かな、時計は朝の壱時を打ち候に。君も今頃は筆おき給ふ頃、坊たちがをらで静なる夜に何の夢か見給ふらむ。今日父の墓へまゐり候。去年のこの頃しのび候て、お寺の廊の柱にしばらく泣き申し候。
 光は末《すえ》が負《お》ひて竹村の姉の許《もと》へ、天神様の鳩《はと》を見になど行き候。かしこに猿もあり、猿は行儀わろきもの故《ゆえ》見すなといひきかせ候。おばあ様は秀《しげる》を頬《ほお》ずりし給ひ、もう今から、帰つたあとでこの児が一番心にかかるべしと申され候。光は少しもここの人たちに馴《な》れず、またしては父さんへのん/\[#「のん/\」に傍点]と申し、末《すえ》と大道へのみ出たがり候。
 汽車中にてまた新版の藤村様御集、久しぶりに彼君《かのきみ》のお作読み候。初《はじめ》のかたは大抵そらにも覚えをり候へば、読みゆく嬉《うれ》しさ、今日ここにて昔の箏《こと》の師匠に逢《あ》ひしと同じここちに候ひし。宅の土蔵の虫はみし版本のみ読みならひて、仮名づかひなど、さやうのことどうでもよしと気にかけず、また和文家と申すもの大嫌ひにて、学校にてもかかるあさはかにものいふたぐひの人にわれ習はじとて、その時間に顔出さざりしひがみ今に残り候私なれど、この御集のちがひやう私にも目につき候は、さはいへあやしき襟《えり》かけし少女をくちをしと見る思《おもい》に候。
 天眠様精様京の光子様お逢ひしたき人多けれど、かう児どもつれてはいかが致すべき。
 帰る日まで申さじと思ひ候ひしが、胸せまりて書き添へまほしくなり候。そはやはりふるさとは詩歌の国ならず、あさましきこと憂《う》きこと、きのふの夕より知りそめしに候。
 竹村の姉がり訪ひしに、私は聞かでもよきこと、姉は語らではあられぬこと耳に致し、人の子に否とこたへしわが名、もとよりなりと何も/\思ひすてをり候ものを、をみななり、今更に悲しう、父あらぬ身をわびしと思ひ知り候。母も宅の者誰もその事しらず候へど、姉より聞けば、むかひ側の家今は人の家なれば、私帰るともそこへは一歩もふむをゆるすなと、はる/″\英国より△△まで。――君おしはかり給へ。――それにその人、私の着くとやがて来て、ちと来よなど、さりとは知らぬおとしあな、おそろしの世と知り候。かなたの湯殿《ゆどの》に母も弟の思へる人も入りに行けど、さらばわれは踏むまじく、東京のせん湯に入りつけてはと母には申して、子らつれておあし持ちて横町の湯へまゐれば、見知れるらしき人ありて眼をそばだて候。椿《つばき》の葉にて私のをさなき時に乳母がせしやう光《ひかる》に草履《ぞうり》つくりてやりたくと、彼の家の庭をあやにくや見たうも/\思へど、私はゆかず候。かしこの土蔵には弟どう思ひてか出立の前に、私のちひさき時よりの本と自分のと別々にしらべてまとめおき候よし、さ聞きて俄《にわ》かにその本こひしく、お祖母《ばあ》様の手垢《てあか》父の手垢のうへに私の手垢つきしかず/\、また妹と朱など加へし『柵草紙《しがらみそうし》』のたぐひ、都へも引きとらまほしく、母ゆるさば、父のいつもおもかげうつし給ひし大きな姿見《すがたみ》もろとも、蒲団《ふとん》になとくるませて通運に出さすべく候。
 母ます/\文学狂になり候て、よべも歌の話いろ/\と致し、君の祭見る日の下加茂《しもがも》の橋はつまらずと申し、大井川濃き緋《ひ》の帯のいくたりの鼓拍子に船は離れぬは、かしこの景色すきなるものから、それはよしと喜びていくたびも口ずさみ候。また松田などや申し候ひけむ、山の人とはきつとおえらき人なるべし、物言ひのてきはきして心の奥にかげなきは、江戸のお生れの人かと申し候ゆゑ、あれは緑雨《りよくう》様や宅のお友達、数学の天才にて、こちらの朝日の角田様も古く知り給ふ方《かた》、当節は文学を専門になさる人たちよりも、かやうな学問のちがひし人様の方々に、まことのおえらき人あるなりと申し候へば、いつの世でも大抵はさうと、母たいさう知つたかぶりな顔を致し候。
 庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘《つ》みなされずにお残し下されたく、軒の朝顔かれ/″\の見ぐるしきも、何卒《なにとぞ》帰る日まで苅《か》りとらせずにお置きねがひあげ候。
 あす天気よろしくば、光に堺の浜みせてやれと母申して寐たまひ候。
[#下げて、地より1字あきで](『明星』一九〇四年一一月)



底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6)年6月6日10刷発行
初出:「明星」新詩社
   1904(明治37)年11月号
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年1月10日公開
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