由から、その「男らしさ」を失った人間として批難されねばなりませんが、歌人として、また国語を以て文章を書いた先覚者として尊敬されているのはどうした訳でしょうか。
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論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさ[#「つつましやかさ」に傍点]とを備えていることをいうのである。その反対に「女らしくない」ということは、無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味するのであるといわれるでしょう。しかし愛と、優雅と、つつましやかさ[#「つつましやかさ」に傍点]とは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。人間性は男女の性別に由って差異を生ずる性質のものでないのですから、もしこれを失う者があれば「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難して宜しい。しかるに従来は男子に対してそれが寛仮《かんか》され、女子に対してのみ「女らしくない」という言葉を以て峻厳に批難されて来たのは偏頗《へんぱ》極まることだと思います。
我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさ[#「つつましやかさ」に傍点]とを要求します。しかし無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等の欠点は、男子においても許しがたい欠点であることを思わねばなりません。これを女にばかり責めるのは、性的|玩弄物《がんろうぶつ》として、炊事器械として、都合の好いように、女子を柔順無気力な位地に退化せしめて置く男子の我儘《わがまま》からであるといわれても仕方がないでしょう。
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以上のように考察してくると、論者のいうように、女子に特有して、それが人間的価値の最高標準となるべき「女らしさ」というものは終《つい》に存在しないことになります。論者が「女らしさ」といっているものは、或物は、一地方的のものであり、時に由って変化するものであって、決して私たちの生活を支配するような権威を持ってい
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