いたい。その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。一般の女子に中学程度の学校教育をすら授けないでいる日本において、また市町村会議員となる資格さえ女子に許していない日本において、どうして、男子と同等の教育とか職業とかいうことが軽々しく口にされるのですか。女子に対してまだ何事も男子と同等の自由を与えないで置いて、早くもその結果を否定するのは臆断も甚だしいではありませんか。
 それよりも、論者に対して、もっと肉迫して私の問いたいことは、女子が果して論者のいうような最上の価値を持った「女らしさ」というものを特有しているでしょうか。私にはそれが疑問です。
 論者は、「女らしさ」というものを、女子の性情の第一位に置き、その下にすべての性情を隷属させようとしています。女子に、どのような優れた多くの他の性情があっても、唯だ一つの「女らしさ」を欠けば、それがために人間的価値は零《ゼロ》となり、女子は独立した人格者でなくなるというのが論者の意見らしいのです。私は疑います、「女らしさ」というものが果してそんな[#「そんな」に傍点]に最高最善の標準として女子の人格を支配するものでしょうか。

       *

 そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪に歩くということ、人形のように温順《おとな》しくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件であることは確かです。しかし日本ではそう[#「そう」に傍点]でしょうけれども、欧米の女子は悉《ことごと》く外輪で歩いています。また我国でも多くの女学生が唯今は靴を穿《は》いて外輪に歩きます。また欧米では、戦後に一層女子の体育が盛んになり、女学生の帽や服装に男子と同じものを用いてまで、活溌な運動に適するように努力しています。そうして、それがために「女らしさ」を失ったという批難が欧米において起らないのを見ると、論者の有難がる「女らしさ」というものは、全人類に通用しない、日本人だけのものであるように思われますがどう[#「どう」に傍点]でしょうか。
 論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天
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