は遠い崖の下に、勇ましい聖ヂヨオヂの姿を見ると、苦々《にが/\》しさうに舌打ちをした。
「畜生《ちくしやう》。あいつは遊んでゐやがる。」

     Don Juan aux enfers

 ドン・ジユアンは舟の中に、薄暗い河を眺めてゐる。時々古い舟《ふな》べりを打つては、蒼白い火花を迸《ほとばし》らせる、泊夫藍色《サフランいろ》の浪の高さ。その舟の艫《とも》には厳《いはほ》のやうに、黙々と今日《けふ》も櫂《かい》を取つた、おお、お前! 寂しいシヤアロン!
 或|霊《れい》は遠い浪の間《あひだ》に、高々と両手をさし上げながら、舟中《しうちう》の客を呪《のろ》つてゐる。又或霊は口惜《くや》しさうに、舟べりを煙らせた水沫《しぶき》の中から、ぢつと彼の顔を見上げてゐる。見よ! あちらの舳《へさき》に縋《すが》つた、或霊の腕の逞《たく》ましさを! と思ふとこちらの艫《とも》にも、シヤアロンの櫂《かい》に払はれたのか、真逆様《まつさかさま》に沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!

 妻を盗まれた夫《をつと》の霊、娘を掠《かす》められた父親の霊、恋人を奪はれた若者の霊。――この河に浮き沈む無数の
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